古書市で見つけた『JOOK物語』から
<HOME>  update:2019/06/30
1.はじめに
 11月初めに百万遍・知恩寺で開催された「秋の古書市」で、『JOOK物語』という本を見つけた。手に取ると、NHK京都放送局70年史とサブタイトルにある。本は2分冊になっており、1冊目は1982年6月に発行された50年史、2冊目はその後から70周年目の2002年までという構成になっている。NHK京都放送局の創立は1932年6月のことだが、敗戦時の混乱の中で大量の文書破棄が行われているためか、戦前の歴史については生存者からの証言が内容の大部を占める。読んでいると知らなかったことも多く、興味深い話も多数あるので、第1分冊の中からいくつかを選んで紹介したい。
図1 『JOOK物語』のカバー表紙

2.創立から敗戦まで
 1925年2月28日、(社)大阪放送局が設立され、同年6月1日より仮放送がスタートした。この年の7月16日、富士ビル(現高島屋デパート)の一角に、大阪放送局京都出張所が開設された。ここでは主に受信相談や加入業務を行っていた。1928年11月5日には京都駅前の丸物物産館(現ヨドバシカメラの場所)の最上階に大阪放送局京都演奏所が設けられた。
図2 京都演奏所

 1930年、日本放送協会は全国主要都市に放送局を建設し、全国中継網を作る計画を立てた。これに基づき京都でも放送局建設の計画がスタートする。同年9月には敷地選定が開始された。京都放送局の建設候補地は次の8ヶ所であったという。
 (1)葛野郡西院村(現右京税務署付近)
 (2)三条千本国技館跡
 (3)二条城南側(現神泉苑西側)
 (4)千本丸太町刑務所跡地
 (5)御所西側平安女学院横
 (6)左京区吉田中阿達町(京都大学医学部西側)
 (7)中京区南原町(西大路御池東南側)
 (8)中京区西京中合町(現西京高校西側)
 最終的に(4)となった。この地は1928年秋の御大典記念博覧会の第2会場だったところで、ここに大阪放送局が模擬放送室を設置し、会場内にニュースを流していた場所であったと元局員の出野明氏が書いている。建設工事は1931年9月に始まり、翌2月に落成、開局は6月24日であった。開局時は、625kc(*1)、300W、コールサインJOOKであった。当時の局舎は木造2階建て、50m余の高さの鉄塔の間にあった。
図3 許可された官報

図4 最初の京都放送局

 1941年12月8日、太平洋戦争が始まり、翌9日から電波管制が実施された。以前「同一周波数放送」で述べたように、最初は全国一律1000kcとなったが、聴取状態悪化により、25日からは5つの軍区ごとに異なる周波数が使用され、大阪・京都は900kcとなった。12月16日に福知山中継所ができたが、開始するやいなや周波数変更に迫られた。元局員の梅原伊都磨氏は「周波数が一本化され、河原町三条の朝日会館屋上に同期用受信機を設置し、局にライン送りして大阪の電波と京都発振器との同期につとめた。」と述懐している。
 1945年8月15日に敗戦を迎え、京都放送局でもいくつかの部署で書類を焼き捨てたとある。この時開局当時の資料も多く失われたようだ。9月には電波管制が解除され、京都放送局の周波数は1070kcと決められた。

3.1945年から創立50周年まで
 1946年1月には舞鶴放送局が試験放送を開始し、2月に本放送が始まっている。1948年12月1日、京都放送局は第2放送を開始、1430kc、500W、コールサインJOOBでスタートした。この第2放送は1973年3月20日に廃止となっている。
 戦後の放送界の最大の変化は民間放送の認可であろう。京都でも京都放送(KHK)(現KBS京都)が全国5番目の民放として認可され、1951年12月に発足している。1140kc、500W、コールサインJOBRであった。
 1953年6月、京都放送局免許更新にあたり、京都は大阪局のサービスエリア内なので、更新が困難になるという事態が起こった。局を挙げて存続の陳情運動を行い、大阪での公聴会では当時の蜷川虎三京都府知事も必要性を力説、最終的に再免許が決まった。
 1957年は京都放送局管内のラジオ受信契約数が史上最高の343,451件となった。しかし、1954年に大阪放送局がテレビ放送を開局して以来、テレビの受信契約数は増加をたどる反面、ラジオ受信契約数はこの時をピークに急速に減少していった。
図5 第2期京都放送局

 1963年3月には新放送会館の建設工事が始まり、1965年3月に落成した。これが昨年解体された局舎である。
 1971年、大阪放送局の大電力化にともない京都放送局のラジオ放送廃止の計画が生じた。そこで京都府域のFM放送用にJOTP-FMが割り当てられ、3月27日からFM放送が開始した。しかし放送局の存続が決まったため、JOTPは前橋局のコールサインとなり、JOOK-FMが使用されることとなった。
 1978年11月23日、全国一斉のラジオ周波数変更が行われた。10kHz間隔の周波数を9kHz間隔にするための措置であった。
 1982年6月は、開局50周年にあたる。50周年記念事業の一つに円山公園のラジオ塔の復旧があった。これについては京都室町ライオンズクラブの協力の下、1982年5月に除幕式が行われた。
図6 円山公園ラジオ塔

4.おわりに
 第2分冊では、テレビ放送の話が中心で、ラジオ放送の話はほとんど出てこない。当初はラジオ、テレビと受信契約が分けられていたが、これがラジオのみ(乙)とラジオとテレビ(甲)になったのが1962年のことである。1968年4月にはラジオの受信料が無料になった。ラジオは京都放送局開局40年を待たずに、すでに衰退の一途をたどっていたのである。京都放送局ラジオ第1放送JOOKは2015年2月2日に廃止され、これ呼応するように旧放送会館から烏丸御池の新放送会館に移ったことは以前に述べた通りである。

【参考】
『JOOK物語 NHK京都放送局70年史』京都放送局70年史編集委員会、2002.5、非売品(?)
「逓信省告示第958号」官報第1618号(1932年5月25日)

※ラジオ塔・官報は筆者撮影、それ以外は上記冊子から引用した写真。

(*1):官報では960kcとなっており、周波数が異なることから、京都放送局にメールで問い合わせたところ、電話でご返事をいただいた。詳細は不明とのことだが、当初960kcでスタートしたが、すぐに625kcに変更になったとのこと。混信等が理由ではないかとの回答であった。お話ではいろいろ調べられたようで、たいへん丁寧な対応をしていただいた。

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