樺太のラジオ放送
<HOME>  update:2020/02/24
1.はじめに
 ロシアとの平和条約締結と引き替えに歯舞、色丹島を取り返そうという話が俎上に上がっているが、元々歯舞、色丹島はもちろん南樺太も日本の正規の領土であった。今回は、敗戦までの期間の樺太のラジオ放送について取り上げる。
図1 樺太の地図

2.開局までの歴史
 1875年にロシアと結んだ「樺太・千島交換条約」によって、日本は樺太を放棄するが、その後の日露戦争後に締結された「ポーツマス条約」(1905年)により、南樺太(樺太の北緯50°以南)が日本領となる。

 1925年5月、大阪放送局の試験放送が樺太大泊無線局で良好に聴取できたことから、樺太内での受信テストが始まったが、高級受信機でなければ聴取は困難で受信機の普及はなかなか進まなかった。しかし、1928年に札幌や仙台に放送局ができたことで受信状況は改善され、聴取者は増加していった。そこで樺太にも放送局を設置しようという気運が高まり、日本放送協会や逓信大臣等に陳情し、1938年豊原市(現在のユジノサハリンスク)に放送局を設置することが決まった。

 また、1936年に豊原で開催された樺太始政三十年記念共進会の会場において、札幌中央放送局が小型放送機を据え付け、会期中場内の模様やニュース等を中継した。このことで放送機の出力と豊原付近の感度の関係がわかるなどのデータを得た。

 局舎の建設は1940年から開始され、翌1941年11月には電波を発射することができた。ところが試験放送中の12月8日、日本が太平洋戦争を開始したため、仮放送を開始し、電波管制を経て、12月26日正式発足となった。

3.豊原放送局の仕様

図2 豊原放送局舎

図3 豊原放送局舎建物

 図2は豊原放送局の放送所の配置図である。図3に局舎建物の図面を示す。放送所敷地面積は19,769u、局舎は鉄筋コンクリート平屋建541.25uであった。

 送信機は、東芝製GFP-36E型送信機で、出力1kWであった。送信機のブロック図を図4に示す。アンテナは62m高の円筒鉄柱で、アンテナ線の長さは60m、頭頂に直径6mの八角形かさ型導体が取り付けられた垂直アンテナである。放送所は、豊原市大字豊原字南二線東13番地(豊原公園内)にあり、コールサインJDAK、周波数620kc、出力1kWであった。ただし、これは割当て周波数で、仮放送までのものであり、本放送は電波管制後となったため、周波数750kc、出力50Wとなった。

図4 送信機ブロック図

 受信所は豊原市郊外の追分部落にあり、敷地面積6,185u、建物面積108uの木造平屋建で、受信機は7球オールウェーブ受信機(550kc〜20Mc)3台、アンテナは6本あり、短波用2本、中波用2本、短波試験用2本であった。受信所では、内地の八俣や名崎からの中継波を短波で受信した。夜間に短波の受信状態が悪い時は札幌中央放送局の中波を受信した。この受信波をケーブルにて豊原郵便局を経由して放送所に伝送した。

4.樺太における聴取者数等

図5 樺太の聴取者数

 図5に樺太における聴取者数の推移を示した。ピークは1944年度でおよそ24,000である。これは世帯数の約3割に相当する。1941年度の聴取用受信機の種類を図6に示す。この頃はほとんどが交流式受信機で、その半数以上は4球受信機(いわゆる並三ラジオ)であった。

図6 聴取用受信機の種別(1941年度)

5.おわりに
 ご承知のように1945年8月9日、ソ連が日本に宣戦布告し、北緯50°線を越えて進攻してきた。8月23日にはソ連の進駐で放送は停止、28日に局舎が接収され、豊原放送局は以後ソ連の放送局として使用されることとなった。 


【図は参考書より引用、グラフは筆者が作成】

【参考】
『日本無線史』第12巻、電波管理委員会、1951年

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