朝鮮半島のラジオ放送 
<HOME>  update:2018/02/27

1.はじめに
 日本の植民地下のラジオ放送については、会報NO.436〜438(2016年10〜12月号)でまず台湾を取り上げたが、第2回目は戦前の朝鮮半島のラジオ放送について取り上げる。図1に1945年当時の朝鮮半島のラジオ放送局の所在地を示す。朝鮮半島でのラジオ放送の開始は早く、東京、大阪、名古屋に続く4番目の開局であった。まずは、朝鮮半島をめぐる歴史的経緯を確認しておきたい。

図1 1945年頃の朝鮮半島のラジオ局(筆者作成)

2.日本と朝鮮をめぐる近代概史
(1)江華島事件
 19世紀にはいると欧米列強はアジア進出に乗り出し、各地で侵略、植民地化を進めた。朝鮮の宗主国である中国も例外でなく、アヘン戦争によって領地を切り取られた。そうした中にあっても朝鮮はまだ鎖国政策を続けていたが、欧米各国は朝鮮領にも出没するようになる。なかなか進まない朝鮮と明治新政府との開国交渉の転機となったのは、江華島事件である。江華島事件とは1875(明治8)年9月、朝鮮の江華島に近づいた雲揚丸のボートが砲撃を受けたので、雲揚丸が砲台を攻撃破壊し、永宗島を占領し、民家を焼き払い、戦利品を持ち帰ったという事件である。この事件は海軍当局による挑発の疑いが強いと言われている。この結果、日朝修好条規(江華島条約)が翌年2月に結ばれている。条規第1款は「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」と中国の宗主権を否定し、日本の治外法権、関税ゼロ、日本通貨流通などを認めさせている。

(2)日清戦争と朝鮮「独立」
 次の大きな出来事は日清戦争(1894.7〜)である。日清戦争の発端は、朝鮮国内で起こった農民戦争鎮圧に朝鮮政府が中国に出兵を要請したことに始まる。これに呼応し日本も朝鮮に出兵し、これを機に朝鮮への支配権を確立しようと、朝鮮王宮を攻撃し政権を打倒した。そして大君院を執政に立て、朝鮮からの中国軍撤退を要請させた。これにより日清戦争は始まった。結果は周知の通り日本の勝利に終わり、1895年4月日清講和条約(下関条約)が締結される。この条約では、朝鮮の「独立」(つまり中国の宗主権否定)、遼東半島、台湾、膨湖列島の割譲、2億テールの賠償金を得た。しかし、独仏露3国が遼東半島の領有に反対し清国に返還するよう求めた。いわゆる三国干渉である。このため日本の威信が低下し、ロシアが朝鮮に手を伸ばすようになる。

(3)日露戦争から朝鮮併合へ
 次は日露戦争(1904.2〜)である。中国山東省を中心に起こった義和団事件の鎮圧に英仏露の連合軍が出動した。ところが鎮圧後もロシアは満州から撤兵しなかったことから日露戦争が起こった。この戦争も日本の勝利に終わり、1905年9月にポーツマス条約が締結された。日本は欧米列強に朝鮮の「保護国」化を求め、同年11月、4000人の軍隊で王宮を取り囲んで朝鮮に第2次日韓協約(乙巳保護条約)の締結を強要させた。これに基づきソウルに統監府が置かれ、内政・外交の実権は統監(初代は伊藤博文)が握った。こうした日本の朝鮮支配に欧米列強が口を出すこともなかったため、日本はいよいよ朝鮮併合へと進む。1910(明治43)年8月「日韓併合ニ関スル条約」が締結される。その第1条には「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」とある。統監府は朝鮮総督府となった。以後、1945年8月まで日本による統治が続くのである。

3.JODK京城放送局
 前述のように、1910年8月以降、朝鮮は日本国の一部となった。こうした状況の下、1924年11月に朝鮮総督府逓信局が構内の実験用無線電話を改造して実験放送を始めた。周波数750kc、出力50Wという記事が「Oka Laboratory」というウェブページの「短波研究室」というコーナーにある。放送の事業化申請が多数あったので、逓信局ではこれらをまとめて非営利事業として経営させることとし、1926年11月30日、社団法人京城放送局の設立を許可した。1927年2月16日に同局は周波数870kc、出力1kW、コールサインJODKで本放送を開始した。
 JODKのコールサインにまつわる興味深い話が『日本放送史(上)』に掲載されている。筆者は元京城放送局長の篠原昌三氏である。少々長いが引用したい。
  JODKのコールサイン
 大正13年11月京城府光化門通りの逓信局構内から、朝鮮最初のラジオ電波が発射された。
 実験用放送電波の発射に先立って、コールサインが問題となった。朝鮮逓信局は内地のAK・BK・CKにつぐ第4番目の放送局として、京城をJODKとする申請をしたところ、JO○○は国内用に保留して、外地放送局に対しては、朝鮮はJB○○・関東庁はJQ○○・台湾はJF○○とする意向であった。そこで、現地当局は、内鮮一体の国策に反するとして、双方相対立したのである。しかし、実験放送開始も間近となったので、当時の逓信局長の英断によって、京城放送局はJODKを使用することとなった。私はこの時、JODKの第一声をアナウンスした。
 その後、社団法人京城放送局が設立された際、JODKは既成事実としてそのままとし、つづいて開局した各放送局はすべて、JB○○を割り当てられたのである。

 「内鮮一体の国策」とは、朝鮮併合を指す。同じ日本国なのだから続きのコールサインを割り当てるのは当然という理屈である。戦後国内各局は戦前に割り当てられたコールサインを引き続き使用したが、朝鮮は日本から独立したため、JODKだけは「幻のコールサイン」となってしまった。

図2 官報に告示された京城放送局

図3 京城放送局貞洞放送所(『ラヂオ年鑑 昭和6年版』より)

4.釜山放送局
 1933年の京城放送局の出力増強と第2放送開始によって聴取状況の改善がみられたが、これだけで朝鮮全土をカバーすることは困難であることから、まず釜山に放送局を設置する計画が進められた。『官報』には朝鮮総督府告示第337号で認可されている。1935年1月に工事が開始され、同年9月21日から放送が開始された。釜山放送局には朝鮮独自のコールサインであるJBAKが割り当てられた。以後の朝鮮内の放送局はすべてこのJBコールとなる。京城〜釜山間は搬送式有線中継で結ばれたので、これによって朝鮮南部の受信状態は著しく改善された。この中継線を利用し、釜山郊外に設置された東莱受信所で受信した内地の電波を活用したために、内地の放送を昼夜を通じて明瞭に放送することが可能となった。『ラヂオ年鑑 昭和11年版』から釜山放送局の施設・設備を以下に示す。

図4 釜山放送局の官報告示

 位 置   釜山府大庁町1丁目7番地
 空中線装置 自立式鉄塔2基(高さ41m、35m各1基、塔間距離55m)に空中線1組を懸架、T型2条、水平部30m、垂直部33m
 呼出符号  JBAK
 放送装置  東京電気(株)製GRP102D 150W水晶制御全交流式放送装置1組
 使用周波数 1030kc

東莱受信所
 位 置   釜山府大淵町
 受信装置  13球スーパー 3台
 中継方法  専用電話線で京城中央放送局と釜山放送局に継送

 『ラヂオ年鑑 昭和12年版』以降の釜山放送局の放送出力は250Wとなっていることから、出力増強が行われたと思われる。また、『ラジオ年鑑 昭和17年版』から釜山放送局には第2放送の記述がある。1941年8月から以前の第1放送の周波数1030kcを使用して第2放送が放送を開始した。第1放送の周波数は650kcに変更になっている。この二重放送化は清津放送局とともに行われた。

5.平壌放送局

図5 平壌放送局(『日本無線史12巻』より)

 朝鮮放送協会は、釜山に続いて朝鮮西部の平安南道平壌に放送局設置の計画を立て、1936(昭和11)年10月21日に500Wの二重放送局を開設した。平壌放送局の施設・設備を『日本無線史』から記す。

図6 平壌放送局の官報告示

 位 置   平壌府梧野里130番地
 空 中 線  支線附木柱(高さ55m)4基に空中線2組を懸架
 呼出符号  JBBK
 放送装置  東京電気無線会社製GRP98B型水晶制御全交流式放送装置2組
 使用周波数 第1放送 820kc、第2放送 1090kc

楽浪受信所
 位 置   平安南道大同郡南串面柳寺里301番地
 受信装置  9球スーパー 5台
 中継方法  京城中央放送局の電波を受信し、3.7kmの回線で平壌に継送

 平壌放送局以降の放送局については『ラヂオ年鑑』は施設・設備の詳細を記載しなくなったため、『日本無線史』の記述によった。

6.清津放送局
 清津放送局は、平壌放送局とほぼ同時期の1936(昭和11)年11月15日に開局した。この局は朝鮮半島の北方、ロシア国境に近い半島の尖端に位置している。1942(昭和17)年3月には1100kcで第2放送が開始された。『日本無線史』による施設・設備は以下の通りである。

図7 清津放送局の官報告示

 位 置   清津府目賀町8番地
 空 中 線  自立式鉄塔2基(高さ60m)に空中線1組を懸架
 呼出符号  JBCK
 放送装置  東京電気無線会社製GRP102D型水晶制御式放送機2組
 使用周波数 850kc(10kW)

康徳受信所
 位 置   咸鏡北道鏡城郡龍城面康徳洞177
 受信装置  11球スーパー受信機 3台、
       10球スーパー受信機 1台
 中継方法  京城中央放送局の電波を受信し、13kmの回線で清津に継送

 『日本放送史』(上)には「爆砕した清津放送局」という記事が掲載されている。重傷を負った局長夫人が咸興放送局にたどりつき語った話をまとめたものという。筆者は元京城放送局アナウンサーの白須清氏である。1945年8月13日、清津放送局の局員と家族はソ連軍の朝鮮領内侵入に対して待避しようとしていたところ、1個中隊の放送局守備隊が到着し、待避せず、軍と行動を共にするよう求めた。武器をもって応戦したが、多勢に無勢、最後には仕掛けた爆薬で放送局もろとも自爆したという話である。沖縄戦と同様の悲劇がここでも起こっていた。

7.咸興放送局と裡里放送局
 咸興放送局と裡里放送局は、1938(昭和13)年10月にほぼ同時に開設された。咸興放送局は第1放送1050kc、250Wで、裡里放送局は第1放送570kc、500Wで開始した。その後、咸興放送局は1939(昭和14)年4月に、第2放送1050kc、第1放送780kcと使用周波数を交換し、裡里放送局は1942(昭和17)年4月*1に第2放送を1100kcで開始している。『日本無線史』から各局の施設・設備を以下に示す。
《咸興放送局》

図8 咸興放送局の官報告示

位 置  咸鏡南道咸興府山手町1丁目79番地
空 中 線 自立式三角型鉄塔3基(高さ35m2基、
     40m1基)に空中線2組を懸架
呼出符号 JBDK
放送装置 東京電気無線会社製GRP102D型水晶制御式放送機2組
使用周波数 第1放送 1050kc(250W)→780kc、
      第2放送 1050kc(250W)

《裡里放送局》

図9 裡里放送局の官報告示

位 置  全羅北道裡里邑南中町86番地
空 中 線 支線付木柱(高さ55m)にT型空中線1組を懸架
呼出符号 JBFK
放送装置 東京電気無線会社製GRP98B型水晶制御式全交流式放送機1組
使用周波数 第1放送 570kc(500W)、
      第2放送 1100kc(50W)

8.その他の放送局
 『ラジオ年鑑』昭和18年版には、大邸放送局(JBGK) と光州放送局(JBHK)があるのみだが、『日本無線史』にはさらに大田放送局(JBIK)、元山放送局(JBJK)、海州放送局(JBKK)の記載がある。新義州放送局以下の放送局については「朝鮮放送協會」というWebページによった。このページの記述については出典が示されていないので確認が困難である。これらの局について以下に表にまとめておく。

表1 その他の朝鮮半島の放送局


9.放送聴取者の推移など
 京城放送局開局当初の聴取者は2,000名あまりであった。開局当初の聴取料は2円で、なかなか加入者増は見込まれなかったため、結局1927年10月に聴取料を1円に値下げし、受信機の格安販売などで聴取者増に努めた。1927年の4月に約600名、5月に約300名、そのあとの6〜9月は100名にも満たない加入状況であったが、10月には一気に約1,200名と急増している。値下げの影響大である。その後、1930年11月には聴取者10,000人を突破している。
 開局当初の番組編成は「内地文化の紹介と朝鮮文化の発展に資することを基調」にし、日本語と朝鮮語をおよそ7:3に編成していたが、1928年の昭和天皇即位大典を中継放送したことを契機に内地からの中継番組が増加し、朝鮮語放送は次第に減少していった。
 1931年の満州事変以降、政府はラジオ放送を使った国論統一と電波管理を重視し、1932年4月に(社)京城放送局は(社)朝鮮放送協会に改組された。朝鮮放送協会は、聴取者増のためには大電力放送と各地への小電力放送開設を計画するとともに、朝鮮語放送の拡大のため二重放送を計画した。日本放送協会からの融資援助で、京城放送局に10kW送信機2基を設置し、第1放送日本語・第2放送朝鮮語の二重放送が1933年4月26日から開始された。
聴取者数の推移を以下に示す。

図10 放送聴取者数の推移

 『ラジオ年鑑』昭和18年版には1941年度末までのデータしかないので、聴取者が1945年時点でどの程度になったかは不明である。いったいどのくらいの普及率だったのか。1940年7月時点での世帯数と聴取者数のデータがあるのでこれから算出すると、世帯数4,296,524に対し、聴取者数190,870であり、普及率は4.4%である。内地人(朝鮮在留の日本人)では58.0%であるが、朝鮮人では2.3%であった。ちなみに、内地人の全世帯数に対する割合は約3.8%にすぎない。日本国内における聴取者数は1941年度で6,624,326であり、1940年国勢調査による世帯数は14,218,931であるから、普及率は約46.6%である。朝鮮内の日本人世帯の普及率は日本国内よりも高いことがわかる。

10.おわりに
 ご承知のように1945年8月の日本の敗戦によって、朝鮮放送協会が管掌していた放送局は清津放送局を除き、日本の手を離れる。『JODK消えたコールサイン』によれば、9月に入り京城中央放送の日本語放送が廃止され、朝鮮語放送が開始、10月には日本人職員の罷免が行われた。1名が引き継ぎのためか残留を要請され、翌年1月まで勤務したという。(了)

【参考資料】
・山辺健太郎『日韓併合小史』岩波新書、1966.2、150円
・趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書、2012.11、840円+税
・日本放送協会編『日本放送史(上)』日本放送出版協会、1965
・日本放送協会『ラヂオ年鑑』昭和6年〜16年版
・日本放送協会『ラジオ年鑑』昭和17年〜18年版
・津川泉『JODK消えたコールサイン』白水社、1993年7月
・朝鮮総督府告示第379号『官報第6号』内閣印刷局、昭和2年1月7日、P33〜34
・朝鮮総督府告示第337号『官報第2540号』 内閣印刷局、昭和10年6月22日、P631
・朝鮮総督府告示第182号『官報第2810号』 内閣印刷局、昭和11年5月18日、P512
・朝鮮総督府告示第68号『官報第3052号』 内閣印刷局、昭和12年3月9日、P259
・朝鮮総督府告示第562号『官報第3487号』内閣印刷局、昭和13年8月17日、P628
・朝鮮総督府告示第563号『官報第3487号』内閣印刷局、昭和13年8月17日、P628
 
<HOME>