旧満州地域のラジオ放送 
<HOME>  update:2018/12/04

1.はじめに
 戦前の日本は中国東北部(当時は「満州」と呼ばれた)に傀儡政権を打ち立て、植民地的支配を行ってきた。当時は多くの日本人が満州に移住し、農業を中心に生活が営まれた。そのため満州にも多くのラジオ放送局が作られ、民衆の娯楽や政府の宣撫のために活用された。今回は、満州のラジオ放送について取り上げる。
 満州におけるラジオ放送局の状況(1944年10月現在)は図1の通りである。まずは満州地域に関する歴史をふり返ってみよう。

図1 満州のラジオ放送局


2.満州の概史
(1)満州事変まで
 日清戦争で日本は朝鮮の「独立」(中国の宗主権否定)、遼東半島・台湾・膨湖列島の割譲、2億テールの賠償金を得たが、独仏露3国が遼東半島の領有に反対し、遼東半島は放棄せざるを得なかった。続いて起こった日露戦争は、山東省を中心に起こった義和団事件の鎮圧に出動したロシアが、鎮圧後も満州に居座ったことをきっかけに引き起こされた。日露戦争に勝利した日本は、朝鮮を支配下に置き、その上ロシアの租借地であった関東州と南満州における鉄道の権益を獲得した。関東州とは遼東半島の先端部を指す。この関東州と鉄道付属地の保護にあたったのが関東軍である。
 関東軍が満州を中国の領土と認めず自らの勢力下の土地とし、必要なら武力も辞さないという立場だったのに対して、一方には、日本が満州を直接支配するのではなく、満州を清国領土と認めた上で、南満州鉄道(株)(以下、満鉄と略)を通じて日本の政治的、経済的権益を計ろうとした勢力もあった。こうした対立軸を中心に、欧米列強の干渉や、当事者である清国内の混乱もあいまって、満州情勢は複雑な動きを見せることになる。

(2)関東軍の暴走
 満州事変以前、中国東北部は東三省と称されていた。現在の黒竜江省、吉林省、遼寧省を指す。ここは清国政府からは独立した軍閥政府によって支配されており、清国末期には張作霖が権勢を誇っていた。
 1928年6月の奉天駅近くでの張作霖の爆死は、関東軍高級参謀河本大作を首謀者とするものであった。張作霖の死去により満州地域の勢力バランスが大きく変わる。同様の謀略が再び起こるのは1931年9月のことである。関東軍の参謀の命により柳条湖で鉄道爆破事件が起きた。柳条湖は奉天城内の北側の地点である。中国軍からの攻撃という理由で戦闘が開始され、鉄道付属地の保護という任務であった関東軍が一気に満州全土を対象として軍を進めたのである。これに呼応し、朝鮮に駐屯していた軍も越境し満州に進出している。参謀本部の命令を無視しての越境であった。こうして関東軍の暴走が始まり、日本政府はこれを追認することとなる。10月には錦州爆撃が起こり、国際連盟が期限付き満州撤兵案を勧告する。1932年2月からリットンを委員長とする国連調査団が日本、中国、満州を現地調査し、10月に報告書が出される。これに先立つ3月1日には、清朝の廃帝溥儀を元首に満州国の建国が宣言された。しかし国際的な非難の前に、1933年2月、日本は国際連盟を脱退し、中国との長い戦争に突入していく。

(3)満州占領政策の特徴
 当時の日本は、資源も乏しく、人口が急増し、工業の基礎も弱かったので、世界恐慌の中、このままでは立ちゆかなくなることは目に見えていた。そこで満州を占領し、資源を確保し、製品の販路を作ることが日本の進むべき道とされたのである。当時の論調には、失業問題の解決や民衆の生活向上、ひいては混迷する清国政府に代わって日本が満州の経済発展を進めることで、満州人の幸福にもつながるというものが見られる。日本人が満州における中国民衆とともに国作りを進めるという考えは、支配者側の一方的な論理であるが、こうしたことがラジオ放送においても、早くから満州人向け放送(第2放送)開始をもたらしたのではないかと推測される。

3.満州電電設立までのラジオ放送前史
(1)大連放送局
 1925年3月、住民のラジオ熱の高まりを背景に、満鉄大連埠頭事務所の無線電話施設を使用して放送の公開実験が行われた。同年8月に大連で勧業博覧会が行われることを機に、関東逓信局は大連市外西山屯の大連無線局河口受信所内に放送所を、大連市大山通の大連中央電話局内に演奏所を設置し、実験放送を兼ね放送を開始した。コールサインJQAK、出力500W、周波数645kc。開設当時、日本国内では東京放送局、名古屋放送局が本放送を開始していただけという早い開設であった。1925年末の聴取者数は早くも2000名をこえた。
図2 大連中央電話局内の大連放送局演奏所

(2)哈爾浜広播電台
 満州事変以前の中国東北部は、中国政府とは独立して東三省政府が権限を握っていた。1927年10月、東三省の東北電信管理所は哈爾浜地域において、埠頭区フランス商会の一部を借用して実験放送を行った。この成績が良好だったため官民合弁会社が設立され、1928年米製ケロッグ社の送信機を購入し、ロシア語で放送を開始した。1930年には哈爾浜電話総局の管理下となり、ロシア語、満州語で放送が行われた。コールサインCOHB、波長445m(周波数674kc)。満州事変後、放送局は一時停止となったが、関東軍の哈爾浜入城後の1932年7月には電信電話事業が接収され、哈爾浜電政管理局の管理となり、コールサインMOHBへの変更、周波数674kc、出力1kWに拡大された。言語もロシア語、満州語に加え、日本語での放送も行われるようになった。

(3)瀋陽広播電台
 1928年10月、東北無線電長途電話監督処の管轄の下、瀋陽広播電台が開設された。コールサインCOMK、出力2kW、波長420m(周波数714kc)。1930年には東北交通委員会の管轄となる。満州事変後、関東軍は停止された放送局を管理し、奉天放送局として関東軍特殊通信部に所属させ、コールサインZILYと変更した。放送は、満族、鮮族、外人向けと日本人向けの混淆放送が行われた。

(4)新京放送局
 1932年10月、奉天放送局新京演奏所が新京南広場新京電話局内に開設された。1933年4月、満州国の首都を新京に定めたことから、関東軍が特殊無線部に命じ、元東北無線長春電台跡に1kW送信機を設置し、コールサインMTAY、出力1kW、周波数570kcで放送を開始した。

4.満州電電の成立
 1933年9月、日本政府と満州国政府の監督の下、満州国と関東州の電気通信事業統一のため、日満合弁満州電信電話株式会社(以下、満州電電と略)が成立した。当時の業務組織図を図4に示す。このような電信電話事業と放送事業を一体的に民間会社が管理する形態は、日本、朝鮮、台湾が電信電話事業は逓信省、放送事業は放送協会と分離していることと比べると異色である。満州電電で放送普及課長などを勤めた武本正義は「電信電話と一体の会社だったから…放送は儲からなくても心配はいらなかった。」と述べ、この形態の利点を示している(*1)。開設当時の放送施設は、関東軍逓信局管轄下の大連放送局、満州国交通部(*2)管轄下の奉天、新京、哈爾浜の4放送局で、これが満州電電に引き継がれた。

図3 満州電電の組織図

 初年度の会社の仕事は、まず満州事変で破損した奉天と哈爾浜の放送施設の改修で、あわせてコールサインが奉天放送局はMTBY、哈爾浜放送局はMTFY、新京放送局はMTCYに変更された。なぜ新京放送局のMTAYがそのまま継続されなかったのかは不明である。大連放送局管内では加入者のほとんどが日本人であったので(*3)放送内容は日本人向けとし、夜間は日本国内の放送を中継した。奉天と新京の放送局では日満露鮮英の5カ国語放送が行われた。1933年の新京放送局の言語別放送時間割合は、日本語46.8%、満州語43.2%、朝鮮語5.1%、英語3.1%、ロシア語1.8%となっている(*4)。

5.コールサインの謎
表1 満州のラジオ放送局一覧

 表1に1944年10月時の満州の放送局を示した。これをみると、満州最初の放送局である大連放送局のコールサインはJQAKである。このJQコールはこの他には安東放送局JQBKに使われているだけである。他の放送局はMTというコールサインを使用している。同一の「国」内でなぜ異なるコールサインが使用されているのかという疑問がわく。
 筆者の推測はこうである。ロシアから遼東半島の権益を得たのは1905年のことで、遼東半島の尖端はロシア租借期から関東州と呼ばれていた。日本の領土である関東州に含まれる大連に放送局ができた際に、ITU(万国電信連合)が日本に割当てた「J」を使った「JQ」が割り振られたのは不思議ではない。JODK朝鮮国京城局の認可は1926年であったのに対し、大連局の認可は1925年8月と東京、大阪、名古屋に次ぐものであったことを考えると、日本の逓信省は早くから外地(日本国外の植民地)でのコールサインの割当て方針を持っていたと考えられる。だから京城局以外の朝鮮の局には「JD」コールが割り当てられた。JODKが例外なのである。
 一方、他の満州の放送局に割り当てられた「MT」コールであるが、これについては次のような推測が成り立つ。そもそもITU(1932年)のコールサイン割当て表では「M」はイギリスに割り当てられており、これはその後も変わっていない。国際的には認められていないはずのコールサインが使われたからくりは、放送局がITUのコールサイン割当ての対象外にあったためである。したがって日本の放送局のコールサインに「J」を使う義務はないが、アメリカの放送局に倣って行われたようだ。そこで、満州国という「独立」国の放送なのであるから、日本とは異なるコールサインを割り当てることとし、「MT」が使われたと思われる。恐らく、「MT」は満州電信電話(株)に因るのではないか。最初の「MT」コールであるMTAYが使われたのが1933年4月、満州電電が設立されたのが1933年9月と時間差があるが、満州電電設立の元となった文書「対満州国通信政策」を関東軍司令部が決定したのは1932年7月であることから、この推測には無理がないと思われる。
 むしろ、満州国成立後であるにもかかわらず、1937年12月に認可された安東放送局がJQBKを取得している理由がわからない。いろいろ調べてみたが、この件について書かれたものを見つけることはできなかった。

6.各放送局について
 以下に、満州地域におけるラジオ放送局について、設立年順に記す。データは『昭和15年版 満州放送年鑑』による。

(1)大連中央放送局
 大連放送局は、1925(大正14)年8月9日、関東逓信局自らが実験放送を開始したことをもって嚆矢とする。当時の放送所は、大連市外西山屯大連無線電信局沙河口受信所内にあり、送信機はG.E.製モデルET3608号、アンテナは高さ50mの鉄筋コンクリート製支柱間に水平部70mのT型を架設し、周波数645kc、出力500Wであった。
 満州国成立後は、満州電電に引き継がれ、1936(昭和11)年10月、聖徳街3丁目245番地に演奏所・放送所を新築するとともに出力を1kWに増強した。また、1937年7月には10kW短波放送が、同年11月には第2放送が開始された。1938(昭和13)年4月に中央放送局に昇格した。
図4 大連放送局舎(当時)

図5 現在の旧大連放送局舎

《第1放送》
 演奏所:大連市聖徳街3丁目245番地
 放送所:同上
 呼出符号:JQAK
 周波数:760kc
 空中線電力:1kW
 空中線設備:T型自立式絶縁鉄塔2基、
       水平部40m、垂直部65m
 送信機:日本電気製水晶低電力変調式
《第2放送》
 周波数:1016kc
 空中線電力:1kW
 ※他は第1放送と同じ
《海外短波放送》
 放送所:柳樹屯送信所
 呼出符号:JDY
 周波数:9925kc
 空中線電力:10kW
 空中線設備:水平型リフレクタービーム平行2線式
 送信機:日本電気製短波無線電話送信装置水晶制御発振方式
 ※他は第1放送に同じ

(2)哈爾浜中央放送局
 哈爾浜においては、1927年東北電信管理所により実験放送が始められ、その成績が良好だったため、官民合弁会社を設立し、1928年1月に新庁舎が落成、主にロシア語で本放送を開始した。コールサインCOHB、周波数674kc、公称出力1kWである。
 満州事変勃発時に一時放送が停止されたが、1932年7月に日本軍が哈爾浜に入り、哈爾浜電話総局の管轄事業を接収、哈爾浜電政管理局がこれを管理することとなる。同年11月にコールサインMOHBへの変更や出力の増強がはかられた。従来のロシア語、満州語に加え日本語でも放送が行われるようになった。1933年9月に満州電電に移管し、コールサインをMTFYに変更、翌年には出力を3kWに増強した。1938年4月に中央放送局に昇格、1940年7月には第2放送(ロシア語・満州語)が1055kc、1kWで開始された。1941年3月に局舎を哈爾浜市南崗区松花江街601番地に移転した。1942年12月に第3放送が1280kc、250Wで開始された。
 演奏所:哈爾浜市南崗長官公署街
 放送所:哈爾浜市馬家溝送信所
 受信所:演奏所に同じ
 呼出符号:MTFY
 周波数:674kc
 空中線電力:3kW
 空中線設備:支線付T型鉄塔2基 水平部30m、
       垂直部30m
 送信機:マルコニー製東京無線製電機改造
     水晶低電力変調式
 ※第1、第2、第3放送の区別は記述されず

(3)奉天中央放送局
 1928年10月に設立された瀋陽広播電台が前身である。瀋陽広播電台は奉天の商埠地馬路湾にあり、コールサインCOMK、周波数890kc、公称出力2kWで放送を開始した。満州事変後は関東軍の特殊通信部が管轄し、1932年7月にはコールサインをZILYに、周波数を909kcに変更した。この時期に最初の日満連絡中継放送の試験を行っているが、成績は芳しくなかったようだ。技術や番組編成は日本放送協会からの派遣員(関東軍嘱託)が担当していたが、1933年8月に満州国交通部の管轄となり、翌月満州電電に移管し、コールサインMYBYとした。1937年12月新局舎(奉天市朝日区揚式街一段5)が落成、翌年4月に中央放送局に昇格した。第2放送(主に満州語、一部朝鮮語)は1938年10月から周波数1250kcで開始された。
図6 奉天放送局舎
《第1放送》
 演奏所:奉天商埠地馬路湾門牌3号(放送所を含む)
 受信所:奉天市郊外南門外受信所
 呼出符号:MTBY
 周波数:890kc
 空中線電力:1kW
 空中線設備:T型高さ42m自立式四角型鉄塔2基 水平部45m、垂直部39m
 送信機:東京電気無線製水晶低電力変調式
《第2放送》
 周波数:1250kc
 空中線電力:1kW
 送信機:日本電気製自動チョーク変調式
 ※その他は第1放送に同じ

(4)新京中央放送局
 1932年10月、南広場電話局内に関東軍特殊通信部が演奏所を設置し、電話局の搬送電話を利用して奉天放送局に番組を送出していた。1933年4月に大阪放送局で使用されていた1kWの予備送信機を長春無電台跡に設置し、コールサインMTAY、周波数570kc、出力1kWで放送を開始した。同年8月満州国交通部に移管、翌月満州電電に移管し、コールサインガMTCYとなった。1934年11月、100kW放送設備が寛城子に完成した。1936年11月、10kW送信機を増設し、二重放送を開始した。第1放送(日本語)560kc、10kW、第2放送(主に満州語、一部ロシア語、モンゴル語、英語)180kc、100kWであった。1938年4月に中央放送局に昇格、1944年2月には放送総局となる。
図7 新京放送局舎(満州電電本社)

《第1放送》
 演奏所:新京特別市大同大街601号
 放送所:新京郊外寛城子 新京無線寛城子送信所
 受信所:新京郊外孟家屯 新京無線孟家屯受信所
 呼出符号:MTCY
 周波数:560kc
 空中線電力:10kW
 空中線設備:100m自立式絶縁鉄塔 T型水平部28m、垂直部89m
 送信機:東京電気製水晶高電力変調式
《第2放送》
 周波数:180kc
 空中線電力:100kW
 空中線設備:平頂扇型100m自立式絶縁鉄塔
 送信機:日本電気製水晶低電力変調式
 ※他は第1放送に同じ
《短波海外放送》
 呼出符号:TDY
 周波数:10065kc
 空中線電力:20kW
 ※他は第1放送に同じ

(5)安東放送局
 1937年10月、安東大和橋通にコールサインJQBK、周波数805kc、出力50Wで安東放送局が設置された。1939年12月、第2放送(満州語、朝鮮語)が周波数1260kc、出力50Wで開始された。
 演奏所:安東省安東市六番通4丁目3番地(放送所、受信所を含む)
 呼出符号:JQBK
 周波数:805kc
 空中線電力:50W
 空中線設備:T型 水平部50m、垂直部28m
 送信機:山中電機製水晶高電力変調式

7.哈爾浜広播無線電台を作った男
 中国のWikipediaにあたる百度百科に哈爾浜放送局に関する話が出ていた。出所が明らかでないのだが、話は興味深いものなので紹介したい。
 哈爾浜広播無線電台は中国最初の放送局である。この創立に関わった人物が劉瀚(りゅうかん、中国読みliu han)である。劉瀚は1891年河北省通県の生まれで、若い頃から有線通信に強い興味を持っていた。1916年に北京北洋政府交通部の無線電伝工所で無線電信を学び、卒業後、上海の呉淞口無線電台や北京の双橋無線電報隊で仕事をした。1921年には東北三省の無線電学校の教員となり、無線電信の授業を担当している。
図8 劉瀚

 1922年9月、劉瀚は哈爾浜東三省無線電台の副台長となり、無線電信と放送技術について責任を負うようになった。1923年、劉瀚は軍用マルコーニ野戦電話機を放送用送信機に改良し、マイクや受信機を自作して、試験放送を成功させた。そして、哈爾浜南崗転角楼(現在の黒竜江省博物館)を局とし、コールサインXOH、周波数600kc、出力50Wで臨時放送を行った。
図9 哈爾浜無線広播電台局舎

 1926年10月1日、哈爾浜無線広播電台がコールサインXOH、周波数1071kc、出力50Wで正式に放送を開始し、毎日2時間の放送を行った。場所は哈爾浜市王兆屯鉄路平房内(現在の動力区文治街165号)であった。
 1928年1月1日には2階建ての新局舎が市内南崗区長官公署街に完成し、コールサインCOHB、周波数674kc、出力1kWで放送を行った。使用言語は中国語、ロシア語、日本語で、一日6時間の放送であった(1929年には日本の侵略行為に対し、日本語を取りやめ英語を放送した)。
 1930年、劉瀚は台長を追われ、満州事変後は西北へと逃れた。最後は陝西省西風区双石鋪電報局で仕事をしていたが、1941年8月、病没した。享年50歳であった。

8.奉天放送局舎の秘密部屋
 奉天放送局の関連資料を探していた時、「人民網」というネットニュースに「“奉天広播無線電台”旧址発現密室 資料無記載」(2014年11月27日)という記事が見つかった。なかなか謎に包まれた話であるので紹介したい。(*5)
図10 瀋陽の地図

 瀋陽駅からほど近いところにある中山公園の北側を通る中華路と和平大街が交叉する東側に大きな曲がり角があり、地元の人は「馬路湾」と呼ぶ。ここに遼寧広播電視台があるが、このビルの庭に旧奉天広播無線電台の建物がある。
 この建物が建設されたのは1938年のことだが、元々は1927年に建てられた9部屋を要する平屋建の建物に増築したものである。満州事変後は、日本軍の手に移り、日本奉天河登洋行が経営する奉天放送局となった。1938年に奉天放送局が中央放送局に昇格したことを機に増築が行われた。
図11 旧奉天広播無線電台の建物

 日本の敗戦によって放送局は中国の手に移り、瀋陽人民広播電台と改称した。1954年8月には遼東、遼西の2放送局が合併し、遼寧人民広播電台が発足した。
図12 発見された地下室の様子

 2011年5月、遼寧省広播電影電視局は、この建物を活用して遼寧省広播電影電視博物館を建設する計画を発表した。この建物は2014年10月には遼寧省の省指定文化財に指定された。この建物の保守修繕中に、地下室の一面がカビでびっしり覆われているのが見つかった。そこで11月22日、検査を行ったところ、この壁の向こう側に未知の空間が発見された。記者が現場で見たものは、長方形の広さ約120uの地下空洞で、全体がコンクリート造、4本の頑丈な梁がある。南北両面と向こう側にはコンクリートでふさがれた入口がある。中は1mほどの深さの水で覆われ、大量の浮遊物があった。この建築物の施工書類にはこの部屋の記載はなかったという。何のために作られた部屋なのか、謎めいた話である。その後の経緯を追ってみたが、追加の記事は発見できなかった。

9.満州におけるラジオ聴取者
 満州におけるラジオ聴取者数の推移を表2に示す。特徴的であるのは、満州人の聴取者数の伸びである。1041年には日本人を超えている。連載第1回で、満州地域の占領政策の特殊性(「五族協和」に代表される多民族共存を意識した朝鮮・台湾とは異なる植民地政策)について触れたが、このことから満州電電は満州人向けの第二放送を早くから重視した。1936年11月から開始された新京放送局100kW送信の第二放送は象徴的なできごとであり、こうした努力が満州人聴取者の増大に結びついているといえよう。
表2 満州における聴取者数の推移


 このことは放送時間からもわかる。表3に1937年度の第1放送、第2放送の言語別放送時間を示した。第1放送、第2放送をあわせた全放送時間中、日本語は70.6%に対し、満州語は22.5%と全体の1/4に迫る。しかも、放送内容が日本政府のプロパガンダのような番組は少なく、満州人が好む内容を多く放送したことも他の植民地とは異なる。
表3 言語別放送時間(1937年度)


 1938年におけるラジオ受信機の実態を表4に示す。「真空管4箇附」受信機が全体の86%を占める。
表4 受信機別加入数(1938.1〜12)


 これらの多くは「並四」と呼ばれた高周波増幅なしのストレート受信機(検波、低周波2段、整流)で、たとえば満州電電がプロデュースした「普及型4号」は当時の価格で22円(ネットで調べた現在価格は約30,000円)であった。日本国内では中波のみの受信でよかったが、満州では新京の180kc長波放送も受信できる長波・中波受信性能が必要であった。こうした専用受信機は国内のラジオメーカーから輸入され、日本国内に比べ低価格で販売され、ラジオ受信機普及に大きな役割を果たした。(了)


【注】
(*1)白戸健一郎『満州電信電話株式会社〜そのメディア史的研究』創元社、2016.2、P25
(*2)満州国交通部とは、1924年4月に設置された東三省交通委員会のこと。東北無線長途電話監督処が扱っていた電話、無線、放送の事業がこの管轄下に入った。
(*3)『ラヂオ年鑑』昭和9年版によれば、1933年12月時点の大連管内の聴取者は、日本人7,003名、満州人168名、その他21名と日本人が97%であったと記している。
(*4)『ラヂオ年鑑』昭和9年版、日本放送協会。データは1933年4月16日〜12月31日のもの。
(*5)百度百科https://baike.baidu.com/item/「哈爾浜広播無線電台」で検索。(2018年6月9日最終閲覧)

【参考資料】
『満州事変〜政策の形成過程』緒方貞子、岩波現代文庫、2011.8
『満州事変』島田俊彦、講談社学術文庫、2010.7
『図説 満州帝国』太平洋戦争研究会編、河出書房新社、1996.7
『満州放送年鑑』昭和14年版、昭和15年版、満州電信電話(株)(復刻版第2巻、緑蔭書房、1997年)
『昭和15年版 満州放送年鑑 復刻版』第2巻、満州電信電話(株)、緑蔭書房、1997.6
『ラヂオ年鑑』昭和6年〜13年版、昭和15年版、日本放送協会
『ラジオ年鑑』昭和17年版、昭和18年版 日本放送協会

【図版】
図1:ネットで取得した地図をもとに筆者が作成
図2:『ラヂオ年鑑』昭和6年版より
図3:『満州放送年鑑 昭和15年版』満州電電、緑蔭書房 より筆者が作成
図4・5 中村與資平記念館別館 http://blogs.yahoo.co.jp/yosihei8jop/57005734.html
図6 http://society.people.com.cn/n/2014/1127/c136657-26105674.html
図7 http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/090224/koutuu_03.html

図8  百度百科より
図9 鳳凰網より
図10 google mapより筆者作成
図11・12 人民網より
 
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