戦後のNHKラジオ放送の周波数大変更 
<HOME>  update:2015/06/29
 NHKラジオ京都第一放送が今年2月2日で廃局となったことから、今までに廃局となったNHKラジオ放送のことを調べてみようと考えた。NHKラジオ放送が始まった1925(大正14)年3月22日から現在までに廃局となったのは京都局を含め21局にのぼる。また、符号廃止(コールサインが付与されなくなった)局は130局にのぼる。
 廃局となった局についてさらに詳しく調べると、1950年に半数が廃局になっていたことがわかった。そこで1950年という年に着目して、さらに調べてみたところ、我々が体験した1978(昭和53)年11月23日の中波一斉9kHz単位周波数への移行をはるかに上回るような周波数変更が行われていた。

 戦後、GHQのCCS(民間通信局)は、政府に対して逓信関係の法令を新憲法に則して作り直すよう求めた。戦前は、放送を直接規律する法令はなく、電波は政府が管掌するもので、逓信大臣の裁量権に委ねられていたのである。これに基づきいわゆる「電波三法」が1949(昭和24)年12月に国会に提出された。「電波三法」とは、「電波法」(放送局を含む無線局の免許や無線施設の運用に関する技術的側面を規律)、「放送法」(NHKと民間放送のあり方を規律)、「電波監理委員会設置法」(電波・放送の行政機関である電波監理委員会の設置・権限・業務等を定める)のことである。こうした情勢の中で、民間放送設立の動きが活発になり、1949年に22社だった民放の申請局数は、1950年1月には37社、2月には45社、9月には72社と増加した。

 民放設立の動きが活発化する1950年12月、電波監理委員会は「東京は2局、他都市は1局」という設置方針を示した。東京では電通の吉田秀雄が奔走し、毎日、朝日、読売、電通系の4社が対等合併し、ラジオ東京の設立にこぎつけた。2局目は日本文化放送協会となった。大阪では毎日系の新日本放送と朝日系の朝日放送がゆずらず、調整が不可能となったため、2局可能という方針変更がなされた。こうして1951年4月21日、14地区16局が日本初の民放ラジオ局として予備免許を受けた。

表1 最初の予備免許を受けた民放局

 この当時、NHK放送局は占領軍向け放送用の12局を含め135局あった。また、当時のラジオ受信機の状態をみると、例えば1950年のNHK新規受信契約の約180万のうち、再生式受信機が70%以上を占め、スーパー方式はわずか17.7%であった。多くの受信機は550kHz〜1500kHzしか受信できないものが多く、中には1200kHz以上は受信できないというものもあった。受信可能な周波数帯のほとんどをNHK局で占有されている状況では民放の新規設置は不可能である。そこでNHK局の周波数割り当ての大変更が行われ、1951年7月1日をもって、NHK局135局のうち107局の周波数が切り換えられるという措置がとられた。

 この頃、NHKは全国を8つの管内に分けていた。札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、松山、熊本の8管内である。周波数変更の様子を見ると、それぞれの管内の中央放送局の周波数は、第一放送または第二放送のどちらかが変更なしとなっているのがわかる。しかし松山は例外的にか、全周波数が変更されている。

 この大規模な周波数変更は、民放局誕生を原因とするものの、電波監理委員会にとっては好機であったにちがいない。戦前は、前述したように逓信省が電波監理を行っていたが、放送局の出力電力は小さく、また認可数もそれほど増大するとは思ってもいなかっただろう。放送局相互の混信などあまり考慮せずに認可をしていたため、限界に達していたにちがいない。そこで民放局に譲る周波数を作るという口実で、大規模な週蓮変更を行ったというのが真相に近いように思われる。まだまだ戦後の混乱が残る時代に、大幅な周波数変更をどのように国民に告知したのか、興味が持たれるところである。まともな受信機が少ない時代、ある日突然放送が聞こえなくなり、ラジオが壊れたと勘違いした人は少なくなかったと推測される。

表2 1951年7月1日のNHKラジオ局の周波数変更

(OG)
 
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