JODK廃局と1950年の大量廃局の事情  
<HOME>  update:2015/08/24

1.NHKラジオ放送局の廃局の特徴点
 戦後のNHKラジオ放送局の廃局は、昨年の京都第一放送局を含め21局にのぼります。一覧を表1に示します。1950年代の前半まではほぼ毎年廃局がありますが、1950年には10局もの局が廃局になっているのが特徴です。その後、1970年代前半の3局の廃局以降、今年2015年の京都第一放送局まではおよそ40年もの間隔があります。1970年代の廃局が第二放送であることも特徴的です。

Radioflyのウェブページより作成 http://radiofly.to/wiki/
R1は第一放送、R2は第二放送を示す

2.JODK(京城)の廃局
 戦後最初の廃局は朝鮮京城(現ソウル)のJODK(第1放送、第2放送)です。ご承知の通り、1945年8月の日本の占領からの解放によるものです。そもそもJO**というコールサインは日本国内のラジオ局に割り振られたもので、朝鮮京城のラジオ局にそれが割り当てられたことに得心がいかない諸氏も多いことでしょう。JOAK東京、JOBK大阪、JOCK名古屋に続く4番目にあたるコールサインの割り当てからは、日本政府が朝鮮をきわめて重視していた姿勢がわかります。
 JODK、(社)京城放送局は1926年11月に設立され、翌年1月に試験放送、2月に本放送が始まります。当時は日本語と朝鮮語の番組が半々であったようです。放送局を管轄する朝鮮総督府逓信局は、京城放送局に朝鮮国内に割り当てるJB**ではなく、内鮮一体(日本国内と朝鮮は一体のもの)の国策を理由に国内割り当てのコールサインの配分を要求し、配分を受けたようです。(*1)その他の朝鮮国内の放送局は以下に見るようにすべてJB**のコールサインでしたので、京城放送局が例外的な措置であったことがわかります。
(*2)

 敗戦に関わる日本植民地での放送局廃止はかなりありますが、これについてはまたふれることにしたいと思います。

3.大量の廃局を生んだ1950年
 1950年は、この年だけで10局ものNHK第一放送局が廃局となっています。この年に集中した理由について、筆者は当初、民間放送の開局に伴う措置と解釈していましたが、そうではないようです。『NHKラジオ年鑑1951』(*3)には次のような事情が書かれています。1948年にNHKが策定した放送網拡充5ヶ年計画は、1950年6月に施行された「放送法」により見直しを余儀なくされ、新たに放送網拡充計画が策定されました。この策定した計画の中に、8局の廃止が記述されています。8局とは、日立、長岡、柏崎、高田、飯塚、日田、唐津、中津の各中継局です。川内、都城は出ていません。
 「放送法」は、前回も触れた電波三法の一つで、NHKや民間放送のあり方を規律するものです。この法律の施行により、NHKは従来の社団法人から特殊法人へと変わりました。特殊法人とは、「政府が必要な事業を行おうとする場合、その業務の性質が企業的経営になじむものであり、これを通常の行政機関に担当させても、各種の制度上の制約から能率的な経営を期待できないとき等に、特別の法律によって独立の法人を設け、国家的責任を担保するに足る特別の監督を行うとともに、その他の面では、できる限り経営の自主性と弾力性を認めて能率的経営を行わせようとする法人をさします。」(総務省HPより)つまり、これによって政府の管理統制の権限がさらに強められることになりました。当然、強い反対の声が起こりましたが、政府はこれを押し切りました。
 同じ『NHKラジオ年鑑1951』の別の箇所には次のような文が書かれていました。「25年度に廃止されたものは別表の通りであるが、これは福岡、鹿児島及び新潟の各第1放送が10kWに増力されたためである。」別表には、高田、柏崎、長岡、都城、川内、飯塚、唐津、日田、日立の9局が掲載されており、この表には中津がありませんでした。1950年の廃止はキー局の出力増によるものでした。

【参考文献】
(*1)『幻の放送局〜JODK』篠慧子著、鳥影社、2006.10
(*2)『戦争・ラジオ・記憶』貴志俊彦他著、勉誠出版、2006.3
(*3)『NHKラジオ年鑑1951』日本放送出版協会、1951.12

(OG)

 
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