ラジオ聴取者100万人突破の時代 
<HOME>  update:2017/04/24

1.はじめに
 会報NO.438の「台湾のラジオ放送」で台湾に残るラジオ塔について触れた折に、戦前日本の植民地であった地のラジオ塔建設のことを知りたいと『ラヂオ年鑑』を調べてみたが記述は国内のみであった。この時、ラジオ塔の建設が日本放送協会のラジオ聴取者加入数100万人突破記念事業の一環であったことを知った。同書によれば、1932(昭和7)年2月16日に100万人を突破したとあり、その数は1,000,260と1の位まで示されている。現在の日本ではラジオ受信機数はおろか、ラジオ聴取者数についても推定数しかわからないことに比べると、戦前はラジオが正確に管理されていたかよくわかる。では、その管理システムはどうのようなものだったのだろうか?

2.聴取加入数百万突破記念
 日本のラジオ放送は1925(大正14)年に東京、大阪、名古屋で相次いで始まったが、翌年8月には日本放送協会(以下、協会と略)が設立され、前記3局は解散となった。協会設立時のラジオ放送聴取者は338、204であったが、出力の増強や全国各地に放送局を増設したことで増加し、ついに1932(昭和7)年に100万人を突破した。協会は、聴取加入数百万人突破を記念して以下のような記念行事を行った。
@記念放送週間
 1932(昭和7)年5月1日より1週間、記念放送を実施。『ラヂオ年鑑』には「豪華番組」や「全国知名の士、演芸者等」を招聘との文字が躍る。
A記念展覧会
 大阪、名古屋をはじめとした各地で、聴取料金引き下げ、放送事業の現況、無線界の近況を紹介する展覧会が開かれた。
Bラジオ塔
 「大都市の公園其の他全国五十ヶ所にラヂオ塔を建設し、公衆の聴取便宜の増進を計ると共に事業周知宣伝の一助とした。」(『ラヂオ年鑑』昭和8年版より)
C功労者の表彰
D記念祝賀会
 こうしてラジオ塔は、1932(昭和7)年にまず全国40カ所に建設され、1940(昭和15)年までの分については『ラヂオ年鑑』で建設が確認できる。同書に出ているラジオ塔を集計したグラフを図1に示す。

図1 ラジオ塔の建設数(累計)

 1932・33年に50基ほど建設された後は、1938年まではほとんど増えていないが、1939年になると急増していることがわかる。この数は公園等の公共施設に建設されたもので、これ以外に鉄道の駅構内に設置されたものが262基ある。どのような形状のものであったのかは不明である。この駅構内に設置されたものを地域別に分類してみると、図2のようになる。

図2 駅構内に設置されたラジオ塔の地域別分類

 『ラヂオ年鑑』には、東北地域で採用されたラジオ塔の図面が掲載されている。図3に示す。
図3 ラジオ塔の図面(『ラヂオ年鑑 昭和8年』より)

3.ラジオ受信契約者数の推移
 『NHKラジオ年鑑1951年版』に掲載されている受信契約者数を表1に示す。これをグラフにしたものが図4である。太平洋戦争中の増加数の鈍化と敗戦直後の大幅な落ち込みが見てとれる。 1950(昭和25)年に900万人を突破したことが、同書では話題となっている。1950年といえば、電波三法が施行され、協会は「特殊法人日本放送協会」に生まれ変わり、翌年には名古屋・大阪で初めての民間放送が産声をあげるなど、ラジオ放送が大きく転換した時期にあたる。

表1 受信契約者数の推移



図4 受信契約者数の推移

 当時の契約者のラジオ受信機の状況が調査されている。1926(大正15)年9月末の343,116台のうち、鉱石式253,065(73%)に対し、真空管式は90,051(27%)であった。これが契約者100万人を突破した1932(昭和7)年3月末には全1,055,778台のうち鉱石式174,528(16%)、真空管式881,250(84%)とほぼ逆転している。真空管式も当初は電池式が多かったが、1931(昭和6)年の統計では全受信機の2/3がエリミネータ(交流電源)式となっている。このように1人でレシーバで聴かなければならない鉱石式は感度上の点からも姿を消し、家族そろって聴くことができるエリミネータ式ラジオ受信機が普及していったものと想像できる。

 総務省統計局の『昭和10年国勢調査』から1925(大正14)年の世帯数をみると、11,902,592世帯であるから、これと表1の契約者数を重ねると、約2.2%の世帯が受信契約をしていたことがわかる。また、1935(昭和10)年の世帯数13,383,349からは、当時約18.1%の世帯が受信契約をしていたことになる。ラジオの聴取は、当時の日本国民にとってはたいへんぜいたくな行為であった。一部の金持ちしかラジオを聞くことができないという状況が、誰でも聴くことが可能なラジオ塔建設を歓迎する声となり、建設の促進をもたらしたといえる。

4.ラジオ受信機の管理システム
 今日の日本国内にどれほどのラジオ受信機があり、どれほどの聴取者がいるかはほとんど見当がつかない。現在分かるのはそれぞれのラジオ番組の聴取率で、これも抽出データからの推計である。テレビは一応NHKが台数を把握しているが、相当数の漏れがあるものと思われる。

 当時は、なぜこれほど詳しい数値がわかったのだろうか? それは現在のテレビ放送以上に厳しい方法で協会と受信契約をしていたからである。ラジオ受信機の契約は戦後も1967(昭和42)年まで行われ、その後は契約対象からはずされたため、現在では調べる術がない。

 戦前、「無線電信法」は第1条で「無線電信及無線電話ハ政府之ヲ管掌ス」としている。当時は、無線通信のすべてを逓信省が管理していたのである。また、「放送用私設無線電話規則」(大正12年12月21日省令第98号)の第13条には「放送事項ノ聴取ヲ目的トスル私設無線電話ヲ施設セムトスル者ハ左ノ各号ノ事項ヲ記載シタル願書及別ニ告示スル所ニ依リ放送施設者ニ対スル聴取契約書ヲ差出シ所轄逓信局長ノ許可ヲ受クヘシ 一、機器装置場所 二、受信機ノ種類 (以下略)」と逓信局長の許可を要するとしている。私設無線電話とはラジオのことである。同規則の附則には、聴取無線電話施設許可願書様式が掲載されている。図5にこれを示す。

図5 聴取無線電話施設許可願(『ラヂオ年鑑 昭和8年』より)

 また、『ラヂオ年鑑』には資料として「聴取便覧」というものがあり、ここに聴取手続の方法が記載されている。これによれば、協会との契約に必要な聴取契約書の記載事項には(a)契約者住所氏名、職業、捺印、(b)機器装置場所、(c)受信機の種類及個数、(d)使用方法、(e)申込年月日とある。「使用方法」とは、使用目的ではなく「携帯」して移動するかどうかを聞いているのである。この許可願と聴取契約書を許可料1円とともに、放送協会支部や出張所、あるいはラジオ申込取次所、三等郵便局、ラジオ商、電灯会社、派出所等に提出する。すると、逓信局長の許可書、協会から聴取章を受けることができる。
 (聴取章については参考の「日本ラジオ博物館」のwebpageで見ることができる)

 戦後も1967(昭和42)年までは、協会と聴取者の間にラジオ聴取契約が必要であった。1950(昭和25)年に成立した「放送法」(昭和25年5月 法律第132号)の第32条には「協会の標準放送(535kcから1605kcまでの周波数を使用する放送をいう。)を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。但し、放送の受信を目的としない受信設備を設置した者については、この限りでない。」とある。この条項は、「放送法の一部を改正する法律」(昭和42年7月 法律第94号)で次のように改正された。「ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であって、テレビジョン放送に該当しないものをいう。)に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。」

5.おわりに
 こうして私たちはNHKラジオ放送を受信できる設備を有していても受信料を払う必要がないわけである。それにしても、現在のネットワーク社会では、電波以外の媒体で放送が行われる時代となっており、それらの機器の管理にはかなりの困難が予想される。また、Radikoやオンデマンド配信などでラジオのあり方も大きく変わりつつある。時代にあった受信料のあり方が検討されるご時世である。

【参考】
『ラヂオ年鑑』昭和8年〜昭和13年、昭和15年、日本放送協会
『ラジオ年鑑』昭和16年〜昭和18年、日本放送協会
「昭和10年国勢調査」総務省統計局
「日本法令索引」国会図書館
「国会図書館デジタルライブラリ」国会図書館
『ラヂオ年鑑』昭和8年(図3、図5)
「日本ラジオ博物館」http://www.ne.jp/asahi/radiomuseum/japan/

(OG)

 
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