同一周波数放送 
<HOME>  update:2017/10/23

1.はじめに
 太平洋戦争が始まった1941年12月8日、日本のラジオ放送に大きな変化があった。東京・大阪・名古屋で始まっていた第2放送は中止、翌日の放送開始時からは昼夜ともに860kcの全国同一の周波数で放送が開始されたのである。こうした放送形態は、その後、全国を数群に分割しそれぞれの群で同一周波数放送が行われるなどの変化はあったが、終戦まで維持された。今回は、この同一周波数放送について取り上げたい。なお周波数の単位については、当時の文書がkc(キロサイクル)を使用しているので、文中ではkcで統一することとする。

2.函館〜福岡、松江〜新潟間の同一周波数放送試験
 まず、最初の同一周波数放送について見てみたい。
 『日本放送史(上)』は同一周波数放送について、「わが国では、…昭和7年2月に開局した函館・福岡両放送局間で初めて実施された。」と書いている。これは既設の福岡放送局の周波数に合わせて新設の函館放送局を運用するというものであった。試験放送は日本放送協会の技術研究所の監督の下に行われ、『ラヂオ年鑑 昭和8年版』に「函館・福岡間及松江・新潟間同一周波数放送試験と其の結果」と題する文で詳細が報告されている。それによると、試験放送は次のように行われた。

(1)函館〜福岡間の試験放送
 函館?福岡間の距離は1279km、使用周波数は680kc、出力は両局とも500Wである。第1回試験放送は1931(昭和6)年12月28日?31日までの4日間、時間は22時より1時間半にわたって行われ、異なるプログラムの放送が行われた。最初の試験ということもあり、両局管内だけでなく全国各放送局でも受信が行われた。2回目の試験放送は1932(昭和7)年1月14日?16日までの3日間行われた。放送時間は同じである。この時は、@両局が異種プログラムを放送した場合、A一方は東京から福岡に有線中継しこれを放送、他方は東京・仙台の電波を札幌が受信し、これを函館に有線中継しこれを放送した場合、B一方は福岡より放送し、これを東京・仙台に有線中継し電波で札幌、有線で函館として放送した場合の3つのケースを試験した。第1回・第2回は、同一周波数放送によって両局管内で妨害が出ない地域の確定に使われたが、第3回試験放送では前回と異なり、妨害で実用とならない範囲を調査した。調査は開局後約1ヶ月にわたり行われたとある。この結果、妨害を受ける地域は、函館局管内では室蘭、江差、福山、青森、野辺地、大湊、弘前等で、福岡局管内では唐津、鳥栖等であった。この結果からおおむね良好と判断されたため、両放送局は同一周波数放送を実施している。図1に函館局管内での受信状態を、図2に福岡局管内の受信状態を示す。図中、網線部が受信状態に問題がある地域を示す。
図1 函館地域の受信状況         

図2 福岡地域の受信状況

(2)松江〜新潟間の試験放送
 一方、松江?新潟間の同一周波数放送の試験は、以下のようであった。松江?新潟間の距離は598km、使用周波数は625kc、出力は両局とも500Wである。試験期間は1932(昭和7)年2月23日?26日の4日間、試験時間は14時40分から1時間と22時から1時間であった。放送は同一・異種両プログラムで行われた。この結果、松江局管内では浜田、大田、倉吉、鳥取等が、新潟局管内では直江津、高田、長岡、六日町等で妨害があった。この結果から松江?新潟間の同一周波数放送は断念され、新潟局の使用周波数を変更した。図3に松江局管内の受信状態を、図4に新潟管内の受信状態を示す。記号については前述の通り。
図3 松江地域の受信状況

図4 新潟地域の受信状況

3.なぜ同一周波数放送の研究がはじまったか
 同一周波数放送の研究が行われるようになった最大の理由は、放送局の数が増え、周波数の分配に支障をきたすようになったからである。
 戦前の放送周波数帯は550〜1500kcとなっていたが、実際には陸海軍逓信3省の協定「電波統制協定」(1934(昭和9)年)(「550〜1100kcの周波数帯内では、10kcの整数倍の周波数を放送無線電話に割り当てるものとする」)によって、事実上1100kc以上は放送には使われなかった。また、聴取者の受信設備にも高い周波数域まで良好に受信できるラジオが少なかったことから、周波数配分は事実上1000kcまでに収められていた。
 1934(昭和9)年の統計では、その年の4月〜12月までの新規加入者268,475人中、鉱石ラジオは1.8%、電池式ラジオは3.7%、交流式ラジオは94.5%であった。その交流式ラジオも3球以下は46.8%、4球は42.9%、5球以上は4.8%である。新規加入者の設備がこれであるから、既加入者約160万人の設備は推して知るべしである。
 こうした事情があったため、放送局の周波数は低い周波数から割当てられていったが、1935(昭和10)年前後には1000kc前後が新局には割り当てられるようになった。1935年段階では1000kc以上の周波数は第1放送では富山(1060)のみであり、第2放送では大阪第2(1085)、名古屋第2(1175)の計3局であった。これが1937(昭和12)年の周波数変更時には1000kc以上の局は、鹿児島(1050)、長野(1040)、京都(1070)、前橋(1000)、福井(1020)、山形(1080)と増加し、一方第2放送は1000kc以下の周波数に変更されている。
 このように同一周波放送は、元々狭い周波数帯内でできるだけ多くの放送を行うために研究開発された。ところが、戦争必至の情勢となった1941(昭和16)年の後半になると、同一周波数放送は、敵機の誘導を防ぐ電波管制の一環としてとりあげられるようになった。放送局の電波は日本本土に来襲する敵機の恰好の目標となる恐れがあったためである。しかし、防空管制の上からは周波数を同じにしただけでは不十分で、複数局の中に格段に大きな電力の局があれば、それが目立ってしまい逆に敵機を誘導することになりかねない。周波数を同一にするだけでなく、送信電力も一定の大きさにバランスをとらなければならなかったのである。

4.1931(昭和6)年に行われた同一周波数放送の実験
 この同一周波数放送について調べていくと、函館〜福岡間試験放送よりも前に日本放送協会放送技術研究所が同一放送試験に関する実験を行っていることがわかった。この実験についてまとめられた技術研究所発行の『技術調査及研究報告』第16号(昭和6年12月発行)から、実験の概容を見てみよう。
 「同一周波数放送試験に就て」という4回の実験を概括した論文では、冒頭に外国で行われている同一周波数放送の形式について触れている。まず「強制同期法」(主局で発生させた標準周波数を連絡線で従属局に送り逓倍して同一周波数を得る方法)の例として、ドイツのBerlin O、Stettin、Magdeburg間や、アメリカのWBZとWBZA間を紹介している。また、「独立発振法」(各局別々に発振器を設備し、周波数偏差を限りなく減らすよう調整する方法)の例として、イギリスのEdinburgh、Hull、Bradford、Bournemonth間や、ドイツのAnchen、Munster、Koln間、アメリカのWHO、WOC間を紹介している。
 この後、4回の実験について解説している。4回の実験は1931(昭和6)年8月〜10月にかけて行われた。

(1)第1回実験
 第1回実験は、昼間の小電力、近距離という条件で、技術研究所と調布の六踏園間(約6.7km)で行われた。それぞれの地点で独立の発振器を使い、周波数750kc、空中線電力約5Wであった。実験の時期は1930(昭和5)年秋〜昭和6年9月である。
 放送技術研究所は小田急線「祖師ヶ谷大蔵駅」の南約1kmの地点にあり、調布六踏園は京王京王線「調布駅」南数百mにあった。この間の道路に沿って測定地点を約10ヶ所置いた(図5参照)。研究所に置いた1号送信機から搬送波を発射した場合、六踏園に置いた2号送信機から搬送波を発射した場合、両送信機から搬送波を発射した場合の電界強度の測定や、両送信機から1000c/sで変調した電波を発射した場合の実験、同一プログラムを放送した場合の実験、異種プログラムを放送した場合の実験を行った。この結果、実用となる同一プログラムの場合の電界強度比は平均6.2倍、異種プログラムの場合は平均11.5倍との結論を得た。
図5 第1回実験

  
図6 第1送信所の送信機と回路図


図7 第2送信所の送信機と回路図

(2)第2回実験
 第2回実験は、研究所と静岡放送所(JOPK)間(約133km)及び研究所と桶狭間放送所(JOCK)間(約219km)で行われた(図8)。昼間及び夜間時の同一及び異種プログラムについて実施された。実験の時期は1931(昭和6)年10月9日〜16日である。研究所の送信機は100W、静岡放送所の送信機は500W、780kcを使用し、桶狭間放送所の送信機は10kW、810kcを使用した。測定点として、神奈川県の伊勢原、相模厚木、海老名国分、座間、新原町田、玉川学園前、稲田登戸が置かれた。この結果、昼間の同一プログラムでは電界強度比13〜16、昼間の異種プログラムでは18〜20が実用となる限界であった。また夜間の桶狭間からの同一及び異種プログラムでは実用範囲がほとんど存在しないという結論となった。
図8 第2回実験

(3)第3回実験
 第3回実験は、有線中継による昼間及び夜間の実験で、第2回実験で使われた研究所の送信機に代えて、愛宕山の予備送信機(500W)を使用した。実験時期は10月19日〜24日、愛宕山〜静岡放送局間(145km)、周波数780kc 、愛宕山〜桶狭間放送所間(260km)、周波数810kc で行われた。受信点は、第2回試験と同様に小田急線沿線の7地点を選び、受信を行った。この結果、愛宕山〜静岡間については鶴巻(愛宕山より53.7km、静岡より91.0km)、小田原(愛宕山より70.7km、静岡より75.2km)では昼間同一プログラムでも相互妨害のため実用にならず、新原町田(愛宕山より30.6km、静岡より114.0km)では夜間若干の混信が認められたが実用になると判断された。愛宕山〜桶狭間間については、昼間においては座間と小田原の間に実用限界点があると考えられ、夜間の場合は桶狭間の電波が強くなるため、実用限界点は同種プログラムでは愛宕山から12kmあたり、異種プログラムでは10kmあたりとなった。

(4)第4回実験
 第4回実験は、夜間に同じ電力の遠距離放送所を使用し,2局以上の同時放送に対する成績を求めたものである。愛宕山、静岡、岡山、福岡の500W送信機を使用し、福岡の放送周波数680kcに各局の水晶片を合わせた。これらの地から異種プログラムまたは愛宕山から有線中継した同一プログラムを放送した。受信は月寒、北広島、函館、蒲生、原町、秋田、放送技術研究所、安茂里、静岡、桶狭間、名古屋、野々市、小川、千里、岡山、松江、高知、原、小倉、福岡、清水の21ヶ所と逓信省電気試験所(大崎)、海軍技術研究所平塚出張所、電気試験所平磯分室の3ヶ所で行った。実施時期の記述はない。結果としては、愛宕山から12.4km離れた放送技術研究所や53km離れた平塚では同一・異種ともに問題はなかったが、福岡から55km離れた小倉では他局の妨害が著しかった。

 以上の4回の実験から報告は次のように結論づけている。2つの放送局が同一電力で145kmの距離に存在する場合、放送を支障なく受信できる範囲は昼夜の別なく、異種プログラムでは36km、電界強度比16くらいになり、同一プログラムでは39km、電界強度比12くらいになり、これを超えると混信や音声の歪みが生ずる。放送局間の距離がさらに大きくなれば昼間の実用範囲は増大するが、夜間では実用範囲が著しく狭められ、500km以上離れた場合でも45〜50kmくらいになり、地形が悪い場合は40〜44kmくらいになると考えられる。

5.太平洋戦争までの同一周波数放送の研究
 戦中の状況を語る前に、それまでの同一周波数放送の研究を跡づけてみよう。
 先に述べた放送技術研究所の実験結果に基づき、1932(昭和7)年2月に函館〜福岡放送局間で初めて同一周波数放送が実施された。その後、高知〜台南放送局間でも同一周波数放送が実施された。
 1938(昭和13)年1月に静岡〜浜松放送局間で近距離・同一番組・同一周波放送を実施したが、両局の中間地帯に干渉による難聴地域が広範に生じたため、半年で中止となった。このことから同方式で実施予定だった長野〜松本放送局間の同一周波数放送もとりやめとなった。
 1939(昭和14)年には福井〜富山放送局間で有線式の同期方法を実験した。両局の中間にある金沢局で1局を受信し、その出力を有線で他局へ送り同期させるものであった。また、1940(昭和15)年には高知放送局で、東京の電波を受信し、その電波に同期させる親局式自動同期装置の試験を行った。いずれも実用可能であったが、資材や中継線の問題で実施には至らなかった。
 静岡〜浜松局間で使用された間欠式同期方式(放送の空き時間に相手局の電波を受信し自局の発振器を手動同期させる方式)は、遠距離の同一周波放送では実用になることがわかったので、高知〜函館(1940年7月)や大分〜旭川、防府〜尾道、松山〜帯広、青森〜鹿児島(1941年)で実施された。
 放送周波数不足の解決策として研究が行われてきた同一周波数放送であったが、1941年の後半になると、電波管制の一環として同一周波数放送が取り上げられることになる。

6.戦時下の同一周波数放送
(1)戦時同一周波数放送の実施まで
 1941(昭和16)年7月頃、軍部は中波放送電波が敵機を誘導することをおそれ、非常事態の場合は放送電力を減少し,同一周波放送を行うこと、放送局真上の”サイレントポイント”を除去すること、空襲が予想される場合は放送を中止することを日本放送協会に要求してきた。
 これを受け逓信省・情報局と放送協会は、1941(昭和16)年8月から10月にかけて、全国の放送局を数群に分けた群別同一周波数放送の実験を行い、効果を検証することになった。この実験結果を元に10月31日に、陸軍・軍令部・情報局・逓信省・日本放送協会の合同会議が開かれ、@同一周波数放送の実行期日は関係機関の合議の上決定する、A昼間は全国同一周波数放送とし、各中央放送局の電力は10kW、周波数は860kcを使用する、B夜間は全国の放送局を4群に分け群別同一周波数放送とし、電力は全て500W以下とする、が決定された。この時の群別は次の通りである。第1群(860kc)名古屋・仙台など13局、第2群(1000kc)東京・札幌など10局、第3群(600kc)広島など10局、第4群(700kc)大阪・熊本など12局。また、今後15局の臨時放送所を設けることとした。
 この会議では、北九州重工業地帯の防衛上、小倉放送局の電波停止が陸軍から提案されたが、地元の軍司令部が放送停止は人心を動揺させると強く反対し、結局、小倉局の電力を50Wとし、長府・行橋・折尾に50W臨時放送所を新設し、小倉と同一周波数とすることとして、小倉を特定されないような措置がとられた。

(2)戦時同一周波数放送の実施
 太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月8日午後、東京・大阪・名古屋3局で行っていた第2放送が停止された。第1放送は翌日の放送開始から昼夜共に860kcの同一周波数で放送が開始された。12月20日には860kcが1000kcに変更されている。放送周波数は水晶による独立同期方式が採用されたため、周波数偏差が数100サイクルになる局が続出した。放送電力が夜間には各局とも500W 以下と低下したことや夜間遠方の局の電波が強くなることもあり、受信状態ははなはだしく悪化したようである。
 受信状態改善のため、12月20日からは東京・大阪の夜間電力を2kWに増強、25日からは5群に分けた群別同一周波数放送が始まった。群は当時の軍管区で分けられ、第1群(北部軍管区:北海道・樺太)750kc、第2群(東北部軍管区:東北)700kc、第3群(東部軍管区:関東・甲信越)800kc、第4群(中部軍管区:東海・近畿・四国東部)900kc、第5群(西部軍管区:中国・四国西部・九州)1000kcであった。2月10日からは各中央放送局の電力が5kWに増力され、受信状態の改善が図られた。
 以上の状態がおおむね続いたが、1944(昭和19)年3月末から、戦況の悪化を理由に、再び昼夜共に全国同一周波数放送となった。しかし、再び10月には4群(第1群:北部軍管区(北海道):750kc、第2群:東部軍管区(東北・関東・甲信越・北陸):800kc、第3群:中部軍管区(東海・近畿・四国):875kc、西部軍管区(中国・九州):1000kc)に分けた群別同一周波数放送に変更している。以後、群の分け方に変更があったものの、群別同一周波数放送のまま敗戦を迎えている。


図9 戦時中の同一周波数放送所の一覧図(昭和19年3月)

7.受信状態改善策
(1)同期の改善
 同一周波数放送での周波数の同期は受信状態の改善にきわめて有効であることから、各種方策が講じられた。各局の周波数は、放送休止時に逓信省の標準電波を受信し、これを基準として調整された。しかし、標準電波の発射時間に制限があったり、受信側の感度など問題もあった。さらに高度な同期をとるため、各局に高い安定度の副標準発振器を配備したり、地域ごとに親局を決め、この局に近隣局を同期させるなどが行われた。また、東京・大阪等の局から中継線で標準信号を送り、各局で逓倍して基準とする有線同期方式も実用化に向け試験されたが、戦況の悪化から中継線の保守がままならなくなり実用化には至らなかった。総じて周波数のずれはおよそ1c/s以内となり、状態は著しく改善された。

(2)臨時放送所
 放送電力の低減から受信状態が悪化した地域が増大したため、放送協会は1942(昭和17)年2月の彦根臨時放送所設置を皮切りに、各地に臨時放送所を増設した。設置・変更の状況は表1の通りで、敗戦までに47ヶ所が設置された。建物は公共施設や民家の一部を借用し、アンテナは木柱(30m高、50m長を標準とした)の逆L型、送信機は、初期には協会の持つ予備送信機を使用したが、後には山中電機(株)製造のものや各局が自作したものが用いられた。
表1 臨時放送所の推移


(3)有線放送
 有線放送は1942(昭和17)年12月の東京の一部で実施されたのを皮切りに、全国16都市の一部で実施された。有線放送は電話線や電灯線の有線に155kcの電波を送出し、有線放送用の受信機で受信するものである。電話線が使用されたのは、東京(11分局)、大阪(2)、神戸(1)、名古屋(1)、福岡(1)で、電灯線が使用されたのは呉、津山、室蘭、佐世保、延岡、大泊、真岡で、併用方式は小倉であった。この併用方式というのは、電話線で送られてきた信号を、加入者側で低圧配電線に接続して送出し、付近の聴取者は電灯線に受信機を接続し聴取できるようにしたもので、聴取範囲の拡大を目的としたものである。電話の普及がまだ一般的ではなかったという事情もあったものと思われる。使用された受信機は3球の専用受信機で「有線第1号」〜「有線第3号」まで生産された。

(4)微電力放送の試験
 50Wの小電力臨時放送所は、一方では防空効果に問題があり、他方で隣局との中間地域に必ず受信不良の地帯が生じた。そこで、数キロという狭い地域をカバーする多数の微電力放送局を設置し、それらを有線で結ぶというシステムが考えられた。この方式は1938(昭和13)年にドイツで開発されたもので、電波の利用率を高めるために考案されたものである。放送協会は、1942(昭和17)年末に八王子付近で、1943(昭和18)年4月には群馬県太田・足利付近で試験放送を行い、有効であると判断された。たまたま福岡県の田川・直方付近の受信状態が悪かったため、この地域で試験放送を開始した。田川の放送配置図は図2のようで、親局は田川郵便局に置き、子局9局は遠隔自動制御であった。アンテナ電力は3〜5W、アンテナは15m高の木柱を使用した。
図10 北九州の微電力放送局配置図
8.おわりに
 こうして放送周波数不足を解消するために研究が始まった同一周波数放送であったが、戦時下では防空管制のために本格的な実施が行われたことになる。敗戦を機に再び元の放送周波数に戻ったが、受信状態改善の研究の中で模索された「微電力放送」などは、今日のインターネットを使用したウェブラジオを彷彿とさせ興味深い。

【図の説明】
図1〜4、図6、図7は参考図書(4)より
図5、図8は参考図書(4)の図を参考に筆者が作成
図9、図10は参考図書(2)より

【参考】
(1)『ラヂオ年鑑 昭和8年版』日本放送協会
(2)『日本放送史(上)』日本放送協会編、1965
(3)溝上_「戦時下に於ける放送対策」、『無線と実験』1944年12月号(PDF版をネットから入手)
(4)『技術調査及研究報告』第16号、昭和6年12月、日本放送協会
 
<HOME>