NHKが行ったジャミング放送
<HOME>  update:2023/11/27
1.はじめに
 いまやジャミングといえば中国局の代名詞のようになっているが、その昔、NHK(日本放送協会)がジャミング電波を発射していたことがあるのをご存じだろうか。これは、太平洋戦争末期の話で、たまたま『日本放送史』(1977年版)を見ていて見つけた。関連する書籍等も参考に、以下に紹介することとしたい。

2.太平洋戦争末期の放送事情
(1)放送局数と聴取者数の推移
 日本のラジオ放送は、そのはじまりから敗戦まで政府の管理下にあった。日本放送協会による東京・大阪・名古屋放送局を皮切りに、戦前は90局を超える放送局が開設された。とりわけ1941年以降の開局数の伸びは大きい。これは開戦を機に電波管制を行ったことにより聴取困難地域が増えたため、小電力局の開設を一気に増やしたことによる。

図1 放送局数の推移

 一方、聴取者数は当初1%未満の世帯普及率であったが、放送局数の増加や受信機の低価格化などで徐々に増加し、1944年には約750万人となり、世帯普及率も50%を超えた。しかし、都市部と郡部では落差が激しく、都市部が7割ほどの普及率に対し、郡部は4割であった。

図2 聴取者数・普及率の推移

(2)同一周波数放送の開始
 太平洋戦争開始とともに、電波管制が行われ、東京・大阪・名古屋からの第2放送は中止となり、12月9日より全国の放送局の放送周波数を単一の860kHzとして昼夜放送することとなった。また、中央局の放送電力の減力を行い、臨時の放送所も増やした。これらは各地の放送局の周波数から送信地を知られ爆撃に利用されるのを防ぐためであった。

 12月20日からは周波数を860kHzから1000kHzに変更した。しかし、聴取状態が悪化し、各地で不満の声が寄せられたことから、12月25日からは夜間については全国を5群に分け放送を行うこととなった。区分は表1の通りである。また、中央局の出力を夜間も5kWにするなどしたことで、ようやく安定した受信ができるようになった。

表1 1941年12月の放送群

 1944年7月9日、サイパンが陥落し、本土空襲が現実のものとなったことから、再び昼夜間とも全国単一の同一周波数放送となったが、同年10月1日からは全国を4群に分けた同一周波数放送が行われた。区分は表2の通りである。

表2 1944年10月の放送群

3.サイパンからの放送と防遏放送
(1)サイパンからの日本語放送
 開戦後まもなく、アメリカはサンフランシスコから短波を使用したVOAの日本語放送開始している。しかし、日本では短波受信機の所有が禁止されていたため(「オールウェーブ受信機ノ取締ニ関スル件」逓信省田無局長通牒、1936.3.17)、ごくわずかの日本人のみが聴取したものと思われる。

 サイパン陥落後、まず中波によるVOA日本語放送が開始された。サイパンからのVOA放送は1944年12月26日から開始され、22:00〜01:00JSTに放送された。周波数は1000kHz(*1)、送信電力は50kWであった。VOA放送はアメリカ戦時情報局(Office of War Infomation:OWI)が管轄し、いわゆる「表向き」の放送として、事実を伝えて日本の戦意を喪失させる役割を持っていた。
 一方、アメリカ戦略諜報局(Office of Strategic Services:OSS)は謀略を主とする任務の組織で、OSSが同じくサイパンから日本向けに放送を開始したのが1945年4月23日であった。この放送は謀略放送であり、日本人が運用しているように装った放送で、「新国民放送局」と称した。VOAが使用していない時間帯の04:00〜04:30JSTを使って放送され、機材はVOAのものが使用された。開始時間はOWIとの関係からか、5月には3:45〜、7月には3:40〜と次第に早くなっている。このような時間帯に起床して聞いている日本人がいたのか疑問である。「新国民放送」は、8月10日まで108回の放送を行った。これらの放送については局員をサイパンに常駐することが許されなかったため、サンフランシスコで作成した番組の録音盤を1週間分まとめてサイパンまで空輸したそうである。

(2)NHKの妨害対策
 サイパン陥落を機に、全国の防遏(ぼうあつ)放送網計画が立てられ、1944年10月には朝鮮の清津放送局や仙台中央放送局などを仮想敵国放送と見立て、雑音放送による妨害度や、国内放送への妨害の程度について試験を行っている。1944年12月26日夜よりサイパンからのVOA放送電波が到来、東京での電界強度は200μV/m、四国東岸で650μV/mに達したとある。これに対してNHKは各局よりVOAと同じ周波数で雑音電波を発射した。雑音放送は、当初500W〜50Wで行われたが、十分な効果が得られなかったので、東京(新郷)、大阪(藤井寺)は10kWで、和歌山の日置に大阪放送局の非常用放送自動車(1kW)を配置したりしている。雑音放送は、札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・広島・熊本の各中央放送局と太平洋沿岸などの主要放送局、臨時放送所など33カ所が使用された。一覧を下表に示す。


表3 Jamming放送局の場所と出力(1945.5〜8)


 雑音放送の音源は、当初は自励発振器の同調用コンデンサを機械的に動かして発振周波数を変化させたり、レコードのスクラッチノイズを使ったりしていたが、最終的に大勢の人間が騒ぐ音が一番効果的だとわかり、これを録音した音源を使用した。

 また、いままで22:00過ぎまであった放送を早めに終了し、VOA放送がはじまる前にラジオのスイッチを切らせるようなプログラムの変更も行われた。これはその後1945年5月には再び元に戻している。新国民放送に対するジャミングが行われたかどうかについては『日本放送史』には言及がなかった。

 前項の統計で見たようにラジオは750万台あったから、中には政府やNHKの意に従わずVOA放送や新国民放送に耳を傾けた人たちもいたことだろう。しかし、多くの地域では雑音放送による妨害効果はあったようで、ほとんどの地域でサイパンからの放送は聞こえない状態だったようである。しかし、雑音放送の効果があまりなく、聞こえた地域もあっただろう。参考資料では戦後に実施された「アメリカラジオの聴取調査」結果が出ているが、「放送について聞いたことがあるが、内容は覚えていない」(3%)、「放送について聞いたことがあり、内容を覚えている」(2%)、「放送そのものを聞いた」(2%)とあり、計7%が「聞いた」となっていることは、戦時下という状況下ではかなり多い数字ではないかと感じる。

(*1)『日本放送史』(上)1977年版では、「約1000kHz」となっており、『ブラックプロパガンダ』では「当初大阪放送局と同じ870kcであった」となっている。ここでは前者を採用しておく。大阪放送局が870kHzを使用したことはない。ただ、どちらにせよ第3軍管区(東海・近畿・四国)は875kHz、第4軍管区(中国・九州)は1000kHzを使用していたので、これらに合わせて放送をしていた可能性は高いと思われる。

【参考】
・『日本放送史』(上)、日本放送協会編、1965年1月
・『ブラック・プロパガンダ〜謀略のラジオ』山本武利、岩波書店、2002年5月
・「太平洋戦時下における日本人のアメリカラジオ聴取状況」山本武利、『関西学院大学社会学部紀要』NO.87、2000年3月
【図と表】
図1・2:筆者作成


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