日中戦争時の占領地におけるラジオ放送
<HOME>  update:2019.6.30
図1 満州地域を除く中国地図
1.はじめに
 今回は1937年7月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争時の占領地におけるラジオ放送を取り上げる。盧溝橋は北京郊外南西にある永定河にかかる石造りの美しい橋で1192年竣工といわれる。筆者は15年ほど前に訪問したことがある。盧溝橋事件は、7月7日夜間に演習を終えた部隊に銃撃があったことをきっかけとし、日中双方で200名を超える死傷者を出した事件である。日本はこれを契機に中国への派兵を決定し、1937年7月末には北京、天津を占領、11月には上海を占領した。1938年には済寧、徐州、広東と進み、1939年には南昌、南寧を占領した。1941年12月に開始された米英蘭との戦争は中国大陸にも影響を及ぼし、同年末には香港占領、以降、温州、福州、洛陽、桂林等の占領へとほぼ中国全土を戦場とした。日本軍は戦火の拡大に伴い、対敵や宣撫等の目的で各地に放送局を設置し、これには日本放送協会が関わった。

図2 盧溝橋(2000年8月筆者撮影)

2.初期の中国のラジオ放送
 アヘン戦争でイギリスに敗れた清国が結んだ「南京条約」(1842年)によって開港が進み、多くの外国人が来国し、上海などでは租界(外国人居留地)が形成された。こうした中、中国最初の放送局が外国人の手により開設された。最初の放送局は、上海で「東方無線電公司」を経営していたアメリカ人E.G.Osbornによるものとされる。1923年1月23日、上海市広東路3号の大来洋行の屋上から1500kc、50W、コールサインXROでニュースや音楽を放送した。局名は「《大陸報》曁中国無線電公司広播電台」(通称:奥斯邦電台)である。「曁」は「~と~」の意味である。この局は同年の4、5月の2ヶ月間北洋政府の取り締まりのため停波を余儀なくされている。

 上海ではその後も外国人による放送局の開設が続く。同年5月30日には「新孚広播電台」(南京路50号)が、アメリカ新孚洋行のDavisにより出力50Wで(周波数は不明)、1924年4月23日には「開洛広播電台」(コールサインKRC、江西路)が822kc、100Wで放送されている。

 1927年3月18日、南京路にあった新新公司の鄺賛による「新新広播電台」(コールサインXGX)が780kc、50Wで放送されたものが中国人の手による民営放送局の最初となった。

 上海では日本軍の上海占領までに76もの放送局が誕生したが、多くは国民政府が1932年に公布した「民営広播無線電台暫行取締規則」による取り締まりによって停波された。日本軍の占領時には30余の局があったが、一括買収によりすべて停波した。
 参考資料として、1923年~1932年までに上海に存在したラジオ局の一覧を下に掲載しておく。

 表1 上海にあったラジオ局(1923-1932)



3.華北地方のラジオ放送

図3 華北地方の地図

 華北地方とは満州国を除く中国の黄河中下流域を指し、河北・山西・山東・河南がこれにあたる(図3)。1937年7月7日の日中戦争勃発後、日本軍は7月28日には北京を、31日には天津を占領した。

 日中戦争前、『満州放送年鑑』によれば華北地方には表2のような放送局があった。北京では英米伊系の放送局が日中戦争勃発後も放送を続行していたが、買収の結果、1940年11月のイタリア系「百利維電台」の閉鎖を最後にすべて停波した。また、天津の外国系放送局は戦争開始と同時に天津駐屯の日本軍によって閉鎖させられた。

表2 日中戦争前の華北地方の放送局

 日本軍占領後、天津では1937年8月1日に早くも「華北無線電台」(XGBP)が620kc、500W、中国語で放送を開始している。この放送の開設にあたっては天津駐屯軍から関東軍を通じて満州電電に援助要請があった。満州電電は放送要員と器材を天津に送り、まず冀東政府(*1)通州放送局から着手したが、通州事件勃発のため果たせなかったため、まず天津放送局の開設・運営となったものである。天津放送局では8月1日は19:30から15分間短波を使用し、東京と結び支那駐屯軍司令官からの「前線放送」が行われている。

 日本軍北支方面軍は1937年11月25日に「北支放送暫定処理要綱」を定め、北京の大電力放送局を基幹とする北支放送網の整備計画を日本放送協会に担当させることとした。北京では1938年1月1日に「北京中央広播電台」(XGAP) が640kc、50kW(中国語)、950kc、500W(日本語)で放送を開始した。この時期以降太平洋戦争終結までに華北に派遣された日本放送協会職員は延べ130人にのぼる。華北地域の終戦時の放送局の状況は表3の通りである。

図4 北京中央広播電台(『満州放送年鑑』より)

 日本軍の追撃を受けた南京の蒋介石政権は、南京を放棄し、長沙を経て重慶に移る。当時の蒋介石政権の管轄する放送局の状況を表4に示す。

表4 重慶期の蒋介石政権の放送局

 1937年12月に南京を占領した日本軍は、ここに王兆銘を首班とした政権を誕生(1940年3月)させ、この政府と協定を結び、1940年6月「華北広播協会」が成立した。協会の成立によって放送局の管理・運営は日本放送協会派遣員から協会に移管された。協会の役員・幹部職員の名簿をみると、会長こそ中国人であるが、それ以外の役員の大半は日本人であり、実質的に日本が支配している構図が見てとれる。

 1941年に太平洋戦争が開始されると、華北広播協会は放送による宣伝対象を占領地区、非占領地区、敵国系第三国人(米英仏蘭など)、枢軸国系第三国人(独伊など)、在留邦人の5つに分け、番組編成を行った。『ラジオ年鑑』昭和18年版に華北広播電台協会の放送時間が掲載されているので、平日の放送についてみると、日本語放送は6:30開始、22:00終了で、このうち8:30~9:00、10:30~11:30、14:00~15:00、15:30~16:30、17:25~18:00が休止なので、総放送時間は11時間25分となる。一方、華語放送は8:00開始、0時40分終了で、休止時間は4時間15分なので、総放送時間は12時間25分と華語放送の方が1時間ほど長いことがわかる。

 表3 華北地方の終戦時の放送局

(注)*1:冀東政府:関東軍が河北省に作った傀儡政権。1935年~1938年まで存在した。

4.華中・華南地方のラジオ放送
 華中とは揚子江の中・下流域の地方を指し、湖北・湖南・江西・安徽・江蘇・浙江・四川の各省がこれにあたる。また、華南とは広東・福建・江西チワン族自治区を指す。

図5 華中・華南地域図

 盧溝橋事件(1937.7.7)が発生した当時、首都である南京には蒋介石政府の大電力放送局(75kW)があった。1931年に開設されたこの中央広播電台は当時東洋一の大電力局で、この放送を利用して自国に有利な宣伝放送を行っていた。開始当時の周波数681kcが日本の福岡局と同一であったため、これが混信してXGOAの怪電波としてわが国の放送に少なからぬ影響を与えた。

 1937年11月上海占領後、日本軍は翌月上海に大上海放送局(XGOL、900kc、10kW)を開設し、南京放送局の宣伝放送に対抗した。また、同年12月の南京占領後には、日本軍は南京放送局を復活させ、南京から移動後も蒋介石政府が使用しているコールサインXGOAを日本軍はそのまま使用した。つまりこの時期、XGOAを名乗る局が2局存在したのである。

 華中の放送事業についてはこれまで日本軍が管理していた事業が、1941年2月に設立された特殊公益法人「中国放送協会」に引き継がれた。この協会は1940年3月に南京に成立した王兆銘政権との間に結ばれた日華基本条約に基づくもので、協会成立に伴い南京放送局を中央放送局とし、上海・漢口・杭州・蘇州・寧波をその所属とした。また、太平洋戦争が1941年12月に始まると、上海にあったアメリカの放送局「西華美電台」(XMHA、600kc、500W)および「華僑電台」(XMHC、700kc、500W)を接収した。華中には1937年から1941年までの間に日本放送協会職員が延べ180人派遣された。

図7 南京広播電台(『ラジオ年鑑』昭和17年版より)

 1938年10月21日に日本軍は香港の対岸である広東(現広州)を占領した。香港を通じて連合国から中国に武器や物資が流入するのを阻止するためであった。広東には占領前に1kWの中波放送局があったが、占領時、その放送局の機器は中国軍によって撤収され建物は爆破されていた。そこでその近くの民家を局舎とし、500W中波送信機、500W短波送信機で放送を開始した。これを広州市無線電台と称し、中波は広東周辺、短波は南方の華僑向けとした。この局は南支派遣軍報道部に属し、要員は台湾放送協会から派遣された。

 太平洋戦争開戦直後の1941年12月25日、日本軍は香港島を占領した。占領前、香港には香港政庁が運営する中波2kW、短波1.5kWの放送局があった。占領後の1942年1月4日に日本軍は試験電波を発射し、2月11日から正式放送が開始された。1942年1月には香港占領地総督部が設置され、放送の管理は大本営直属となった。その後、日本放送協会から派遣された軍属が運営を管理した。表4に終戦時の華中・華南地方の放送局一覧を示す。

図8 漢口広播電台(『ラジオ年鑑』昭和17年版より)

5.おわりに
 1945年8月15日、終戦の詔勅が発せられ、南京にあった支那派遣軍総司令部の岡村総司令官は、9月9日投降し文書に調印した。当時の支那派遣軍は105万人おり、他に50万の日本人が滞在していた。これだけの人員が終戦後堰を切ったように帰国した。これらの放送局は中国の手に渡り、その多くが現在の中国各地の人民広播電台の基礎となった。


【参考】
臼井勝美『新版 日中戦争』中公新書、2000.4
「上海広播電視志」、上海市地方志辨公室 http://www.shtong.gov.cn/Newsite/node2/node2245/node4510/index.html
『満州放送年鑑』昭和14年版、昭和15年版、満州電信電話(株)(復刻版第2巻、緑蔭書房、1997年)
『ラヂオ年鑑』昭和6年~13年版、昭和15年版、日本放送協会
『ラジオ年鑑』昭和17~18年版、日本放送協会
『放送五十年史』本編、資料編、日本放送協会、(日本放送出版協会、1952年)
『続日本無線史』第1部、続日本無線史刊行会、1972年
『日本放送史』(上)、日本放送協会放送史編修室、(日本放送出版協会、1965年)
『ラジオ産業廿年史』岩間正雄、無線合同新聞社、1944年

 
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