太平洋戦争時の占領地におけるラジオ放送
<HOME>  update:2019.12.27
1.はじめに
 1941年12月8日に開始された太平洋戦争では、真珠湾奇襲攻撃ばかりが強調され、同時に行われた南方作戦の方はあまり知られていないように思われる。日本軍は、開戦と同時にマレー半島とフィリピンに進攻し、最終的にジャワ島を占領して豊富な石油資源を入手する計画であった。南方地域の占領に伴い、日本軍は各地に宣撫・治安維持・兵士慰安のための放送局を設置した。これらの放送局の設置・運用にあたっては、日本放送協会から多数の職員が派遣された。今回は、この南方占領地域及び樺太の放送局について取り上げることとした。


図1 太平洋戦争関連図


2.太平洋戦争概史
 真珠湾攻撃に呼応して、日本軍はマレー半島上陸、香港攻撃、フィリピン・グアム・ウェーク上陸を行い、12月11日にはグアムを、12月23日にはウェークを、12月31日にはボルネオ・ブルネイを占領した。翌年1月2日にはフィリピンのマニラを占領し、7月にはフィリピン全土を占領した。マレー半島については、1月11日はクアラルンプール占領、そのまま南下し2月15日にはシンガポールを占領した。一方、インドネシア(当時はオランダ領インドネシア、略称「蘭印」)では、2月17日にスマトラ島パレンバンを、3月5日にはジャワ島バタビヤ(現ジャカルタ)を占領した。また、3月8日にはビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)占領、5月1日にはマンダレーを占領した。このように開戦から1942年前半までは計画を超えるほどの戦果をあげ、占領地域はビルマ、タイ、マレー、蘭印、フィリピン、南洋諸島に及んだ。

 しかし、6月5日のミッドウェー海戦での敗北が転換点となり、以後米軍の反攻が次第に優勢になり、1943年2月のガダルカナル島からの撤退に始まる占領地からの撤退が続いていく。その後は圧倒的な物量を誇る連合軍の相手にならず、次第に追い詰められ、敗戦を迎えることとなる。


3.フランス領インドシナ

図2 東南アジア地図

 フランス領インドシナ(以下、仏印と略)は、現在のベトナム、ラオス、カンボジア地域を指し、1887年からフランスの植民地下にあった。1941年7月、日本はインドシナ侵攻の基地とするため、南部仏領(コーチシナ:現在のベトナム南部地域)への駐留を求め、インドシナにおけるフランスの主権を日本が認める代わりに進駐が認められた(『日本軍の南部仏印進駐に関する日仏公文』1941.7.22)。このため仏印では、他の占領地と異なり、日本は放送管理局を置かれず、インドシナ放送会社の経営するラジオ・サイゴンから時間借りをする形で放送が行われた。しかし、インドシナ放送会社は、総督府の補助で運営されており、実質的に日本の支配下にあった。

 さて、仏印におけるラジオ放送の嚆矢は、1930年7月にサイゴン(現ホーチミン)で開始された短波局である。フランス無線電話会社の系列会社である仏領印度支那放送会社による民間局で、出力12kW、週日約4時間の放送を行ったが、1932年5月に停波した。この放送局については仏印総督府が買収・再経営を企図したが実現しなかった。

図3 仏印放送会社のQSL

 1936年初頭には北印度支那ラジオ倶楽部(Radio Club de Indochine du Nord)がハノイで短波局を開設した。13.95MHz(21.5m)、5kWであった。同年秋にはラジオ機器を扱う個人商社がサイゴンに短波局を新設し、11.90MHz(25.2m)、英・仏・現地語で毎日3時間の実験放送を行った。その後、ミシェル・ロベール氏がサイゴンに短波局を新設し、9.52MHz(31.5m)で放送を開始した。
 1938年になるとハノイやサイゴンで放送局が開局した。ラジオ・ハノイ第1(15W)と第2(100W)や、サイゴンのラジオ・ボイ・ランドリー局とラジオ・ミシェル・ロベール局、ハイフォンのラジオ・ハイフォン局(15W)である。しかし、いずれも1938年~1940年に閉局している。

 1939年にはラジオ・サイゴン局と仏印の声放送が放送を開始、ラジオ・サイゴンは短波11.78MHz(25.46m)(遠隔地向け)と6.21MHz(48.30m)(近距離向け)で、中波1053kHz(285m)(市内向け)で放送を行った(*1)。また、仏印の声はフィリコ受信機販売会社の手によるもので、短波4.93MHz(60.08m)と中波1500kHz(200m)で放送を行った。ラジオ・サイゴンの放送言語は、仏、ベトナム、中国、英、蘭、マレー、タヒチ、カンボジア、ラオス等多岐にわたっている。仏印の声放送は太平洋戦争勃発時に停波したので、ラジオ・サイゴン局だけが戦時中も放送を続けたことになる。

図4 ラジオ・サイゴンのQSL(これは戦後すぐのもの)

 1945年3月、日本軍は仏印を軍事占領し、放送局も軍の管轄となった。終戦時の放送の状況は表1の通りである。ラジオ・サイゴンは1945年8月29日に放送を停止し、9月に英印軍の手に渡った。

 表1 終戦期のラジオ・サイゴン局



4.タイ
 タイでは、1927年に短波の試験放送が、1929年に中波の試験放送が行われ、1930年にバンコク郊外に王立放送局が設置された。1931年2月に周波数857kHz(350m)、出力2.5kW、コールサインHSP1で正式放送が始まった。1937年には826kHz(363m)、10kWの中波放送(HS7PJ)と6.12MHz(49m)、10kWの短波放送(HS8PJ)が増設された。

 タイとは、開戦時に攻守同盟を結び、日本軍の南方作戦のためタイ領域内に進駐が行われた。こうした関係からタイと日本は交換放送を行うなど良好な関係が結ばれ、占領地の放送は行われなかった。


5.ビルマ
 ビルマ(現ミャンマー)は、1937年のイギリスの分割統治政策によりインドより分割され、直接植民地となった。1938年にはラングーン(現ヤンゴン)に短波局が2局存在したが、詳細は不明である。1939年10月にはオランダ・フィリップス社製送信機を購入し、ラングーン放送局が周波数6.00MHz(波長49.94m)、出力10kWで放送を開始した。英、仏、ビルマ、タイ語で日曜は午前中3時間、その他の日は午前・夜6時間の放送を行った。

 日本軍は、開戦後まもなくビルマに進攻し、全土を制圧した。当時、日本から追走を受けていた中華民国の蒋介石軍に対し、連合国は香港、仏印、ビルマ等を通る援助物資輸送のルートを確保しており、これを「援蒋ルート」と呼んだ。日本軍のビルマ進攻は、この援蒋ルート遮断の意味もあった。日本軍は1942年3月にはラングーンに進駐し、9月には短波放送を開始している。この放送に使用した送信機はマンダレー駅構内にあった300W短波送信機で、これを修理し6530kHz(ビルマ向け)、7340kHz(インド向け)、各10Wで放送を行った。1943年1月には第15軍軍政監部放送管理局が設置された。しかし、ビルマは前線に近いことから連日のように空襲に見舞われ、1945年2月11日の大空襲で放送局は大破し、その機能がほとんど失われた。インパール作戦の失敗等からビルマ派遣軍司令部は1945年4月にラングーンを放棄したため、残った放送要員も撤退した。表2に終戦時の放送局の状況を示す。


6.イギリス領マレー
 1932年セランゴールのアマチュアラジオ団体がクアラルンプールの逓信局所有の短波送信施設を利用し音楽放送を週3回行ったことが英領マレーにおける放送の起源である。1933年にはマレー受信機販売会社がシンガポールで短波放送を開始、翌1934年にはピナン無線協会が会員自作の送信機で実験放送を開始した。

 1937年3月には英領マレー放送会社(British Malay Broadcasting Corporation:BMBC)がシンガポールで中波放送(ZHL)を開始、翌1938年7月には短波局2局(ZHP1~3)がマレー全土を対象に放送を開始した。

 日本軍は1941年12月19日にピナンを占領、22日にはピナン放送局は日本軍の管轄下におかれた。1942年2月15日にはシンガポールを占領。BMBC局は停波し、局員は撤退に際し送信施設を破壊したため、日本放送協会から派遣された10名の職員を中心に修理・回復が行われ、3月28日には短波12MHz送信機を使って500Wの放送が再開された。

 マレー・スマトラ地区の放送については、当初は軍宣伝部の業務であったが、1942年11月にシンガポール(当時の名称は昭南)に設置された第25軍軍政監部放送管理局がこれを管轄することとなった。この地域は南方経営の中心として、内地から物資や人員派遣が行われ、放送体制が強化された。放送番組は、各地とも第1放送(日本人向け)と第2放送(現地人向け)の2系統で、地方局は東京発の東亜放送やシンガポール局が編成した番組を中継した。当時のマレー半島には500をこえるラジオ塔が設置されていたという。シンガポール局では、内地向け(日本)及び外地向け(インド・西アジア・ヨーロッパ・アメリカ)放送があった。

図5 昭南放送局での放送の様子

 日本軍の敗退につれ、1945年5月にはシンガポールとマレー半島が分割され、9月には全放送施設が連合軍に引き渡された。

表2 終戦時のビルマ、マレー地域の放送局



7.オランダ領インドネシア
 オランダ領インドネシア(蘭領印度と略)では、1932年6月に蘭領印度放送会社(Nederlandisch-Indische Radio Omroep Maatschapij:NIROM)が設立され、1934年3月に本放送が開始された。当初はジャワ島のみの放送で、ダンジョンプリオク(10kW)を含めた18局が開局したが、1936年10月には蘭印全島に放送は拡大した。放送は波長100m以下の短波で全島放送を、100~200mの中短波で局地放送を行った。

図6 オランダ領インドネシアの地図

 蘭印にはNIROMの他、クラブ組織の放送団体が主要都市にあり、40数局が存在した。1941年秋にこれらのうち7団体が東洋語ラジオ協会聯盟PPRKが結成された。

図7 NIROMのQSL

 1942年3月に日本軍が上陸すると、バンドン放送局は停波したが、3月10日には日本軍によってNIROM局とPPRK局の放送が再開された。NIROMでは日、蘭、マレー語で、PPRKではマレー、インドネシア語で放送が行われた。1943年1月には放送管理局の本部がジャカルタに設置され、このときまでに6つの放送局の復旧が行われた。これらの放送局は、日本人向けと現地人向けの2系統の放送を行った。また、バンドン放送局からは短波によるオーストラリア向けの放送が行われた。終戦時の蘭領印度の放送局の状況を表3に示す。

図8 バンドン放送局舎

表3 終戦時の蘭領インドネシアの放送局




8.フィリピン
 フィリピンの放送は、1925,6年頃マニラで短波・中波放送が行われたことに始まるとされているが、詳細は不明である。1929年、RCAの姉妹会社RCPの放送局とベック商会の放送局の2局が存在していた。1934、5年頃にはRCPの後身であるエアランガー・ガリンジャー会社が中波50kW、短波1kWで、ベック商会も中波1kWで放送を行っていた。

図9 フィリピン地図

 1941年時点のフィリピンの放送局数はマニラに10局、セブに1局(ヒーコック百貨店KZRC) あり、カリンジャー会社の後身である極東放送会社(FEB)(コールサインKZRM、KZRF)や、ヒーコック百貨店(KZRH) 、ベック商会(KZIB)が米、スペイン、中、タガログ、ビサヤ語で放送を行っている。

 日本軍は1942年1月2日にマニラを占領した。1月14日にはヒーコック百貨店KZRHの施設を演奏所として、マレイハイツのRCAの建物を放送所として使用し、放送を再開している。1943年2月にはマニラ軍政監部の放送管理局が設立された。


9.パラオ
 1919年のパリ講和会議によりパラオはドイツの植民地から日本の委任統治領となる。コロールには南洋庁がおかれ、戦時中は住人の3人に2人は日本人といわれるほど多くの日本人が移り住んだ。放送業務については1936年に産業開発10箇年計画で中波10kW放送局の建設が盛り込まれたが実現しなかった。1939年に放送業務は日本放送協会が、施設の建設・保守管理は国際電気通信(株)が行う案が決定し、1941年初めに竣工、5月より仕様を開始した。1942年には通信業務用と放送用の送信機を分離運用するため、増設計画が立てられたが、1943年に送信機を海上輸送する途中に船が沈没し計画はなくなった。

図10 パラオ地図

 パラオ放送局は、1941年9月24日に放送を開始した。放送区域は南洋群島一円で、コールサインJRAK、出力10kW、周波数6090kc、9565kc、11740kcの3周波数のうち適当なものを使用した。放送所は本島(バベルダオブ島)のアイライ村にあり、鉄筋コンクリート平屋建120坪、ディーゼルエンジンで自家発電を行った。送信機は日本電気製、アンテナは地上高60mの自立式木柱3基の間に3本のアンテナ線を懸架している。内地からの短波放送を受信する受信所は同島のガスパン村にあり、鉄筋コンクリート平屋建70坪、ディーゼルエンジンによる自家発電を行い、沖電気製1台、日本電気製2台の受信機を設置、アンテナは地上高60mの自立式鉄塔4基、継柱2基の間に17Mcと9.4Mcの指向性アンテナを設置した。

 南洋の高温多湿地帯での運用は本土とは比べものにならないほど困難を伴ったようで、「長時間休止後、早朝最初に送信機を使用する際機体内各所に火花放電し発振不能となることが多い。」(『日本無線史』第12巻、電波管理委員会)などの記述が見られる。
 一日の放送時間は次の通り。
 ・6:00~10:00、11:30~13:00、14:00~15:30、16:30~22:00 東亜中継放送
 ・15:30~16:00香港・ハワイ向け)英語
 ・22:00~24:00 海外中継(ジャワ・シンガポール向け)英語

 アメリカ軍は1944年9月にペリリュー島、アンガウル島に上陸、11月末に占領された。5月のサイパン全滅に続く9月のパラオの施設破壊によって、南洋群島の放送施設は壊滅した。


10.おわりに
 終わりの見えない中国戦線の拡大の中、太平洋戦争を始めた日本は、身の丈の何倍もの地域を占領地域とし、各地に宣撫・治安維持・兵士の慰安のための放送局を設置・運用したが、戦局の悪化により次第に縮小を余儀なくされ、最終的にはそのほとんどを放棄することとなった。『日本放送史』によれば、日本放送協会から南方方面に派遣された要員は300名をこえる。現地要員も含めると1300名ほどの人が放送業務に従事した。これらのうち、帰国を果たせない人達も多かったことだろう。まことに戦争とは"普通の人たち"ばかりに苦難を負わせるものである。

表4 終戦時のフィリピンの放送局



【図】
図3:http://www.entreprises-coloniales.fr/inde-indochine/Radio-Sindex.pdf より
図4:http://www.swlqslmuseum.gdk.mx/ より
図5:『日本放送史(上)』日本放送協会放送史編修室、1965.1、P587
図7:ヤフオクの画像より
図8:『放送五十年史』[本編]、日本放送協会、1977.3、P156

【参考】
『太平洋戦争』(上)(下)、児島襄、中公新書、1965.11
『太平洋戦争陸戦概史』林三郎、岩波新書、1951.3
『ラジオ年鑑』昭和17~18年版、日本放送協会
『放送五十年史』本編、日本放送協会、(日本放送出版協会、1952年)
『続日本無線史』第1部、続日本無線史刊行会、1972年
『日本放送史』(上)、日本放送協会放送史編修室、(日本放送出版協会、1965年)
『ラジオ産業廿年史』岩間正雄、無線合同新聞社、1944年


 
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