<HOME> update:2015/11/22 |
1.はじめに 会報NO.421(2015年7月号)で紹介した『ラヂオ塔大百科2011-2014』(以下、『大百科』と略)は、現存するラジオ塔を取材した書籍だが、この中でラジオ塔が現存する率が最も高いのが京都市である。この本で紹介されている総数28のうち8を占める。ラジオ塔についてはこの本を入手する以前から知っていたものもあるが、この本で新たに知ったものも多かった。この本をたよりに京都市内のラジオ塔について歩いてみたので、以下に紹介したい。 2.ラジオ塔とは ラジオ塔とは公衆用放送聴取施設のことで、街頭など人が集まる場所でラジオ放送を一同に会して聞くことができるものである。人の背ほどの高さの塔の中にラジオ受信機とスピーカーが組み込まれている。最近、スポーツの試合中継などでよく行われるパブリックビューイングのラジオ版と思えばよい。『大百科』によれば、最初のラジオ塔は1930(昭和5)年に大阪・天王寺公園に設置された。以後、各地に設置され、その数は450ヶ所ほどにのぼるようだ。 日本でラジオ放送が開始されたのは、1925(大正14)年3月22日、東京放送局が最初である。当時、東京放送局と聴取契約を結んだ人は約3500人、全国のラジオ所持者は8000人と推定されていた。当時は鉱石ラジオセットが30円、真空管ラジオが100〜200円だった(当時の東京の男性小学校教員の初任給が月額25円ということから、1円は今の価値では1万円とすると、鉱石ラジオで30万円、真空管ラジオで100万〜200万円ほどになる)。また放送聴取料を見てみると、東京・名古屋・大阪の放送局が解散し(社)日本放送協会が発足した1926(昭和元)年8月の放送聴取料は月額1円であり、ラジオは庶民には高嶺の花であった。しかし、1931(昭和6)年9月、満州事変が勃発し、ラジオの速報性が評価されたことや、エリミネータ受信機(商用交流を電源とする真空管受信機)の価格低下、地方局の開設などが要因となり、1932(昭和7)年2月、全国のラジオ聴取者は100万人を突破した。エリミネータ受信機は鉱石ラジオと違い、レシーバーでなくスピーカーで聞くことができるため、一家全員で聞くことができるようになった。また、函館、秋田、新潟、長野、静岡、岡山、松江、高知、小倉、福岡の各地方局の開設により、聴取可能地域が拡大した。しかし100万とはいえ、普及率は8.3%にすぎず、多くの家庭では依然としてラジオ受信機を持つことができなかった。街頭ラジオとしてのラジオ塔は、こうした需要はあるが手が届かない人々の要求を背景に拡大していった。また、戦争という時代のため、ラジオを使って国民の思想統制を図るという目的もあったと思われる。 3.京都のラジオ塔 京都に残存するラジオ塔は公園に設置されたものである。この中で、御射山(みさやま)公園(京都市中京区御射山町)のものは、外観からみて昭和初期に作られたものとは考えられないので除外し、残り7つのラジオ塔について記述する。 (1)円山公園のラジオ塔 円山公園の開設は1886(明治19)8月と古い。この土地は安養寺、八坂神社、長楽寺、双林寺の境内であった。その後2回の敷地拡張を経て、現在のような公園となったのは1914(大正3)年3月のことである。円山公園のシンボルとなっているしだれ桜から八坂神社に向かって歩いていくと、桜の木々の中にラジオ塔がある。このラジオ塔は、大変立派で、JOOK(京都第一放送局のコールサイン)の文字もしっかりと残る。塔には「ラジオ塔の由来」が書かれた銘板がはめ込まれている(図1参照)。これによれば、1932(昭和7)年に設置されたが、戦争中に資材供出のため金属が取りはずされ、NHK京都放送局50周年を記念して1982(昭和57)年に修復されたとある。 住所:京都市東山区祇園町北側(N35°00'01、E135°46'57) 建造:1932(昭和7)年、1982(昭和57)年修復 交通:京阪電車「祗園四条駅」下車、徒歩10分、または「京都駅」から市バス206番(東まわり)で「祗園」下車、徒歩5分 (2)船岡山公園のラジオ塔 船岡山公園のラジオ塔は、公園の中にある野外音楽堂のステージの上に設置されている。船岡山公園は大徳寺の所有地を借用して公園として整備したもので、1935(昭和10)年に開園している。その後、野外音楽堂が設置された1959(昭和34)年にラジオ塔は現在の位置に移設された。 住所:京都市北区紫野北舟岡町(N35°02'11、E135°44'41) 建造:1935(昭和10)年 交通:「京都駅」から市バス206番(西まわり)で「千本北大路」下車、徒歩7分 (3)萩児童公園のラジオ塔 萩児童公園は、京都コンサートホールの近くにある公園である。地下鉄北山駅から5分ほど歩く。ラジオ塔は公園の中央にある。前面にはJOOKの文字の跡が残る。おそらく金属で作られていた文字が戦時中の金属供出で取り外されたのだ。背面には、世話人、寄付者の名前とともに紀元2601年建之の石の銘板がついている。金属でなかったため供出をまぬがれたのだろう。 住所:京都市左京区下鴨萩ヶ垣内町(N35°02'45、E135°46'19) 建造:1941(昭和16)年 交通:地下鉄「北山駅」下車、徒歩5分 (4)小松原児童公園のラジオ塔 小松原児童公園は、嵐電「北野白梅町駅」から北西の位置にある。ラジオ塔は他より一段高い台の上に鎮座していた。ラジオ塔の正面には「紀元二千六百年記念建設 心身錬成」の石の銘板がはめ込まれている。これより1940(昭和15)年の建造と推察される。 住所:京都市北区小松原北町(N35°01'42、E135°43'52) 建造:1940(昭和15)年 交通:嵐電「北野白梅町駅」下車、徒歩10分 (5)橘公園のラジオ塔 橘公園は、今出川智恵光院を300mほど南下したところにある。現在は球技ができる公園となっていて、ラジオ塔は片隅にひっそりと建つ。塔の前面には「橘公園愛護會」の銘板が埋め込まれている。 住所:京都市上京区橘町(N35°01'28、E135°44'57) 建造:1939(昭和14年) 交通:「京都駅」より市バス50番で「智恵光院中立売」下車、徒歩5分 (6)八瀬公園のラジオ塔 八瀬公園は、比叡山に至る比叡山ケーブルの「ケーブル八瀬駅」の横にある。ケーブル駅の向かって右手の細道を上っていくと左手にラジオ塔が見える。塔は斜面の中腹にあり、塔の近くの道端にはラジオ塔の説明が書かれた立て札が立っているが、一般的な記述に終わっているのが残念である。塔の正面にはJOOKの文字跡が残る。また、銘板らしきものが取り去られた跡もあり、ここでも戦時中の資材供出の跡が見られる。近くには京都電燈高野発電所の遺構が残る。この発電所は1900(明治33)年に竣工した水力発電所で、当時180kWの電力を供給していた。 住所:京都市左京区上高野東山(N35°03'48、E135°48'46) 交通:叡山電鉄本線「八瀬比叡山口駅」下車、徒歩7分 (7)紫野柳公園のラジオ塔 紫野柳公園は、地下鉄「北大路駅」の西約400mの位置にある。この公園のラジオ塔は置き時計のようなフォルムで、当時としては異色のデザインであったと思われる。塔の向かって右側にはラジオを出し入れしていたと思われる入口があるがとびらは失われている。この塔には、コールサインや銘板等の跡がまったくない。 住所:京都市北区紫野上柳町(N35°02'29、E135°45'24) 建造:不明 交通:地下鉄「北大路駅」下車、徒歩5分または「京都駅」より市バス9番で「下鳥田町」下車、徒歩3分 【参考文献】 『ラヂオ塔大百科2011-2014』一幡公平著、タカノメ特殊部隊、2014.12 『放送の20世紀〜ラジオからテレビ、そして多メディアへ』NHK放送文化研究所監修、NHK出版、2002.3 『京都市の近代化遺産〜京都市近代化遺産(建造物等)調査報告書〜<産業遺産編>』京都市文化市民局、2005年 (OG) |
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