戦前の上海の放送局~大東放送局に焦点をあてて~
<HOME>  update:2024/09/23
1.はじめに
 『日本無線史』第13巻(無線関係条約法令及び年表)には、巻末に「本邦無線電話年表」という1906(明治39)年から1941(昭和16)年12月までの年表がある。これには1925(大正14)年の放送開始から日本と当時の日本の植民地を中心とした放送局の成立の様子が詳しく記されている。この中に、1936(昭和11)年8月21日、「上海に邦人系放送局設立され(250W、580kc)本日から放送開始」とある。ここには他の放送局開始には書かれている局名もコールサインもないことに違和感を感じ、調べてみようと思った。『日本無線史』第12巻(外地無線史)は、戦前の日本の植民地だった地域の放送局のみが取り上げられており、満州を除く中国大陸の占領地の状況については書かれていない。調べる中で、この放送局が「大東放送局」(XQHA)であることが判明した。当時の上海の放送事情についてふれつつ、この大東放送局について紹介したい。

図1 大東放送局のエンブレム

2.戦前の上海の情勢
 1840年にはじまるイギリスとのアヘン戦争で敗北した清朝は、南京条約で5港を開港させられた。このうちの1つが上海である。イギリスは上海に租界を設置し、アメリカ、フランスも続いて租界を設置した。1863年にイギリスとアメリカの租界が合併し「共同租界」となった。

 1931年9月18日にはじまる満州事変が引き金となり、第一次上海事変が勃発した。上海では日本人僧侶襲撃事件を口実に、日本海軍陸戦隊が中国人の工場が密集する閘北地区を爆撃、大量の避難民が共同租界に逃げ込んだ。

 1937年7月7日、北京市郊外で始まる盧溝橋事件に端を発し、日中全面戦争が始まる。上海では8月8日に上海虹橋飛行場周辺で日本軍兵士2名が殺害されたことから、第二次上海事変が起こる。中国軍の反撃に苦戦した日本軍は3個師団を上海に派遣し、かろうじて勝利した。派遣された日本軍は、そのまま当時の中華民国の首都南京攻略を決め、南京に進撃した。1933年12月、いわゆる南京事件が起こったのはこの時である。

 日本軍の上海支配の中にぽっかりと島のように孤立した租界では、1940年8月にイギリス駐留軍が、1941年11月にアメリカ駐留軍が上海から撤退した。日本軍は1941年12月の太平洋戦争開始と同時に租界に進駐し、日本軍の上海全面占領は以後日本の敗戦まで続く。

3.国民政府時代の上海のラジオ局
 上海のラジオ放送の嚆矢は、「《大陸報》曁中国無線電公司広播電台」(通称:奥斯邦電台)で、これは中国大陸最初のラジオ局でもある。上海で「東方無線電公司」を経営していたアメリカ人E.G.Osbornによるとされる。1923年1月23日、上海市広東路3号の大来洋行の屋上から1500kc、50W、コールサインXROでニュースや音楽を放送した。

 以後放送局は増加し、『上海要覧』(昭和14年改訂版)によれば、「上海は国際都市だけに、国籍を異にする放送局が四十を数え、上海の特色を遺憾なく発揮している。いまこれを国籍別に分類すれば、支那19、日本5、英国4、米国4、英米合作1、仏蘭西2、伊太利2、独逸1、スイス1、スエーデン1、合計40 このうち純然たる外人経営のものは5つで、他は外人責任者の名の下に支那人が経営に当たっているものが多い。」と当時の放送局が林立する様子を書いている。これらの放送局の中で中国人経営のものを除く21局について調べたものを表1に示す。資料によって記述が異なり、あいまいさが残る表となった。

 放送局の林立状態に対し、中華民国政府は1932年11月14日、交通部が「民営広播無線電台暫行取締規則」を制定し規制に乗り出したが、民営中国人電台にとどまり、租界内の外国人電台には及ばぬままであった。


表1 戦前の上海の外国人経営の放送局

図2 上海の地図

地図の丸数字は、日本人経営の放送局の所在地を示す。
 ①大上海電台(XGOI):四川路133号  ⑤大東電台(XQHA):楊樹浦路340号
 ②電通電台(XHHR):斜橋東弄91号  ⑥大上海電台(XGOI):黄浦路15号
 ③大上海電台(XOJB):南京路233号 ⑦東亜電台(XMHA):跑馬庁路445号(旧華美電台)
 ④新声電台(XQSS):南京路423号   ⑧黄浦電台(XMHC):大上海路19号(旧大美電台)


4.大東放送局の開局
 1930年代の初め、上海には虹口地域を中心に約2万5千人の日本人がいた。放送局の増加に、日本人の間からは日本語のラジオ放送の要望が強くなった。1935年11月、中華民国全権特命大使有吉明はラジオ放送局設置の要望書を外務大臣宛に送っている。翌1936年には逓信省がラジオ局開設について調査するために技師を上海に派遣している。

 その頃、ラジオ局の売り物が出てきた。アメリカ人のホワードという人物が共同租界にある放送局の建物と施設を売却したいというものだった。領事館は買収交渉に入り、1936年8月に譲渡を受けた。この放送局が「大東広播電台(大東放送局)」である。周波数580kHz、出力50W、コールサインXQHA、所在地斜橋路80号で、1934年~1935年頃に開局した放送局であった。これをそのまま使用することにして、中国交通部上海電報局に営業許可を求めたところ、上海電報局からは不許可の回答があった。「民営広播無線電台暫行取締規則」第11条により、放送局のライセンスは譲渡・移転はできないというのが理由であった。確かに11条には次のように書かれている。「第11条 广播电台之执照不得移转顶替或租让。」(訳:放送局の免許は譲渡、代替、貸与してはならない。)これに対し、日本側は治外法権を盾に実力行使に出た。責任者は虹口路でレコード店を経営する高木寛がなった。領事館が表に出ることをさけたためであった。こうして大東放送局がスタートした。

 ところで、この「大東」とはどのような意味であろうか。アメリカ人がつけた名前なので英語名があるはずであるが見つけることはできなかった。いろいろ調べていくうちに「大東電信会社」という名前を見つけた。英語名は"Eastern Telegraph Company"である。英国の海底ケーブルを扱う会社で、当時は大北電信会社(Great Northern Telegraph Company)と協定し、上海以北の地域の海底ケーブル布設の権限を得ている。大東電信は当時はよく知られた名前であったので、ここから採用した可能性が高いのではないだろうか。

 1936年10月には、大東放送局全体が日本人の多く居住する虹口へと移転した。揚樹浦340号の日清汽船埠頭事務所である。移転を機に出力を100Wに増強した。大東放送局は、開局後いくつかの問題を抱えていた。1つは運転資金の問題である。上海では日本国内と異なり、聴取料をとることができず、広告等の収入に頼っていたが、思いのほか経費がかかることがわかったため、運転資金の確保は喫緊の問題であった。そこで上海派遣軍特務部や海軍武官府などと協議し資金の提供をすることとなった。もう一つの問題は、国民政府側からの妨害電波である。不認可という回答を無視して放送を開始した大東放送局だったが、これを逆手に取られ、同じ周波数でXQHWという放送局をぶつけられ、混信状態となった。この周波数には放送局は存在しないというのが言い分であった。このXQHWという局については調べたがわからなかった。

5.抗日放送に対する日本の放送の拡充
 上海に進出する日本人が多く住んだ虹口地区が事実上の日本租界となるのは第1次上海事変以後である。日本軍の爆撃を受けた閘北地区の工場破壊などで上海の経済や産業は停滞し、日本人と中国人との関係も悪化していった。第2次上海事変では、虹口・閘北のほか北部の江湾や東部の楊樹浦、南部の南市地域も瓦礫と化し、中国人の抗日意識はさらに高まった。一方、上海に進出する日本人の数は増加し続け、1938年頃の日本人数はおよそ10万人と、他の外国人すべてをあわせた数よりも多かった。

 こうした状況は当然放送にも反映し、日本を非難する論調の放送が増えた。1938年1月には軍部の要請を受け、ラジオを使った宣伝戦の強化のため、大上海広播電台(大上海放送局)が開局した。周波数900kHz、出力10kW、コールサインXOJBで、上海語、北京語、広東語、日本語、英語で放送が行われた。送信所は楊樹浦平涼路の上海紡績会社の敷地内にある白楊幼稚園の一部を使用し、スタジオと調整室は虹口文路の日本人倶楽部の中に設けられた。この大上海放送局は翌年春には、黄浦路のホテル・アスターハウス2F(現・上海浦江飯店)に移転している。

図3 ホテル・アスターハウス

 1940年3月、南京で汪精衛を首班とする傀儡政権が成立し、行政機関は日本軍の手を離れた形がとられた。放送についても華北で「華北放送協会」が、華中で「中国広播事業建設協会」が作られ、表向きは中国人を責任者としながら、日本人が支配した。大上海放送局も、上海広播無線電台と名称を変え、コールサインXGOI、局長は中国人の陳正章となった。局はこれまでの放送を第1放送とし、大東放送局を第2放送(日本人向け、XQHA、630kHz)に編入した。また、短波で重慶向けと南洋向けに放送を開始している。上海広播無線電台は、1944年2月に四川路の英国が所有していたICIビルに移転し、ここを放送会館とした。

図4 ICIビル

 大上海放送局の開局と歩調を合わせるように、1938年4月、中支那派遣軍放送部放送班が「広播無線電台監督処」を南京路233号の哈同大楼に設置し、放送局の取り締まりを開始した。まず中国人経営の民間放送局に対し、登録と確認書の交付を求めた。その後、外国放送局に対しても同様の手続きを求めたが、こちらの方は治外法権を理由にうまくいかなかった。

 1941年12月に始まった太平洋戦争に伴い、日本軍は上海租界にも進駐し、上海全域を軍政下においた。租界に残っていた外国人の放送局も強制接収された。『ラジオ年鑑』(昭和18年版)はこのことについて「皇軍の上海租界進駐を機として、従来不平等条約の陰に隠れて租界に跋扈し、かつてその統制に旧国民政府が散々に手を焼いていた三十に足らんとする民営電台の一括買収を実施した結果、別途措置せられた英米系電台の退陣と友に、適正電波の一挙粛正が実現せられ」と述べている。これにより上海に残った放送局は、上海広播無線電台(XGOI・XQHA)とフランス系法人電台(FFZ)、ドイツ系遠東電台(XGRS)、イタリア系意太利電台(XIRS)、ソ連系蘇聯呼声電台(XRVN)のみとなった。これらの放送局も、1943年9月にムッソリーニを倒したバドリオ政権が連合軍に無条件降伏をするとXIRSが停波し、1944年6月にFFZが日本軍に接収され、ヒトラーが敗れた1945年5月にはXGRSが接収された。XRVNは日ソ不可侵条約で最後まで残ったが、1945年8月にソ連が日本に対し参戦すると、日本軍はXRVNを接収した。日本の租界進駐で接収した放送局のうち、アメリカ系の西華美電台(XMHA)は「東亜電台」と名称を変えて、大美電台(XMHC)は「黄浦電台」と名称を変えて、1941年12月に日本軍の管理下で放送が再開され、日本軍の宣伝活動に参加させている。

6.おわりに
 上海の日本の放送局は、日本の敗戦と共に終了した。「民国時期広播電台」には1945年9月25日に接収されたとある。『姿なき尖兵』には1945年8月18日頃に国民政府の接収員が中国広播事業建設協会に来たと書かれている。ここには日本の敗戦決定後まもなくニセの接収員が幾人も放送局を接収に来たというエピソードもあった。引揚げまでの間、上海の日本人は虹口の旋高塔路を中心とする地区に集中居住させられた。仕事はないため、露天商をやったり、英会話塾を開いたりして糊塗をしのいだようだ。こうして上海から日本の放送局は消えた。

図5 西華美電台(XMHA)のQSL

図6 遠東電台(XGRS)のQSL

【参考】

・『日本無線史』第13巻、電波監理委員会、1951.6
・『姿なき尖兵』福田敏之、丸山学芸図書、1993.3
・「日中戦争と上海の日本語放送」、孫安石、『戦争 ラジオ 記憶』貴志俊彦ほか、勉誠出版、2006.3
・「東アジアにおける「電波戦争」の諸相」、貴志俊彦、同上
・『中国現代広播簡史』趙玉明、中国広播電視出版社、1987.12
・『上海』殿木圭一、岩波新書、1942.3
・『上海』榎本泰子、中公新書、2009.11
・「民国時期広播電台」、上海市地方志办公室主办 https://www.shtong.gov.cn/difangzhi-front/book/detailNew?oneId=1&bookId=4510&parentNodeId=10159&nodeId=10163&type=0
・『上海要覧』昭和14年改訂版、上海日本商工会議所、1939年、2版
・『大陸年鑑』昭和15年版(民国29年版)、大陸新報社編、大陸新報社、1940年
・「テンピンルーの勤務した日本のラジオ局」 https://uetoayarikoran.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-8bda.html

【図の出典】
図1 大東放送局のエンブレム 『戦争 ラジオ 記憶』より
図2 上海市地図 筆者作成(租界の境界は『上海』榎本泰子による)
図3 ホテル・アスターハウス GoogleMapより
図4 ICIビル https://www.historic-shanghai.com/category/ici/
図5・6 XMHA・XGRSのQSL http://www.dallasadmall.com/swlqsl/chinamain.htm


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