戦前の台湾のラジオ放送
<HOME>  update:2016/12/26
1.はじめに
 (社)日本放送協会は、戦前、国策に従い、朝鮮、台湾、満州等の各地でラジオ放送を行った。今回は、植民地下のラジオ放送について何回かに分けて取り上げたい。初回は、台湾である。
 台湾は、正式名称を中華民国と称し、台湾島(3.58万平方キロ)と澎湖列島等の島嶼から成り、人口2230万余である。日本は1895年から太平洋戦争終結の1945年8月まで約50年間台湾を統治下においた。この間に、台北、台南、台中、嘉義、花蓮の5箇所にラジオ放送局が作られた。
図1 台湾の地図と関連地

2.台湾の歴史を振り返る
 台湾における最初のラジオ放送は、1925(大正14)年6月17日~26日に行われた台湾統治始政30周年記念の記念展覧会会場(旧台湾総督府)から台湾総督府交通局逓信部が行った実験放送(出力50W)が最初とされる。30周年とは、日本の統治が始まった1895年6月17日の始政式から数えてのことである。この旧台湾総督府は現在の中山堂(台北市公会堂)の場所にあったが、昭和天皇即位の記念事業として公会堂を建設するために、台北植物園内に移築されて現在も残る。
図2 旧総督府庁舎(ネットより取得)

 ここでそれ以前の台湾の状況を概観してみよう。台湾が国際社会に知られたのは、ポルトガルの発見によるとされる(1544年と推定)。その後、オランダが台湾を占領(1624年)。当時、オランダは台南近くの安平に上陸し、ゼーランジャ城を建設した。この城は現在「安平古堡」として残る。
図3 安平古堡(筆者撮影)

その2年後にスペインは台湾北部を占領するが、1642年、オランダはスペインを追放する。同じ頃、中国大陸では満州族が勢力を広げ、漢族の明王朝から清王朝に替わろうとしていた。明王朝の武将鄭成功は明王朝再興のため台湾に渡り、オランダを追放する(1661年)。鄭成功はその功績を讃えられ「開山王」と称せられた。台南にある国立成功大学の名称はここからきている。その後、鄭政権が崩壊、台湾は清国領となり、福建省台湾府となった(1684年)。ところが清国政府は台湾を積極的に統治・開発しようとせず、1874年になってようやく積極策に転ずるのである。台湾は、風土病が蔓延する未開地であり、海賊が跋扈する島であるという認識が、清国が台湾の価値を認めない理由であったが、1874年の日本の台湾出兵に刺激され、ようやく積極策に転じたのであった。
 1894年8月1日に戦端を開いた日清戦争は、日本の勝利に終わり、1895年4月17日に日清講和条約が締結された。この条約には台湾と澎湖列島の割譲を含んでいた。清国政府は台湾の為政者に知らせぬまま台湾を差し出したのである。そのため同年5月29日から始まった日本軍の台湾上陸は、6月7日台北占領、17日始政式と当初は順調であったが、その後は住民の抵抗運動のため占領は順調に進まず、全島平定は11月18日となった(1)。
 このように台湾のラジオ放送の黎明期は日本の台湾統治と重なっており、日本の植民地政策の一環としてラジオ放送の確立・普及をとらえる視点が必要になる。

3.台北放送局の設立
 『ラヂオ年鑑昭和6年版』によれば、「逓信部は昭和3年4月逓信部庁舎事務室の一部を改造し、1「キロワット」放送設備を為し同年11月1日より試験放送を行い結果良好なりし以て同月22日愈々実験放送を開始した。呼出符号、JFAK波長330m内地と中継可能なる期間は毎年10月より翌3月までである。」(引用では旧漢字を改めてある、以下も同様)と当時の様子が書かれている。試験放送の場所は逓信部庁舎(台北市書院町)、周波数900kHz、1kWと別の資料にある(5)。「内地と中継可能なる期間は毎年10月より翌3月まで」とあるのは、放送の多くを内地(日本本土)の放送の中継に頼っていたが、夏季は中波は空電のため放送波の受信状態が悪かったことに由来する。そのため秋・冬・春しか中継できなかった。これが改善されるのは、短波による中継を待たなければならない。
 さて、1928(昭和3)年秋に京都で実施された昭和天皇の即位を記念し、10kW放送局の建設が計画された。台北市の南西に位置する板橋に送信所を設立し、受信所は台北市の北にある淡水とし、これをケーブルにて結ぶとした。『ラヂオ年鑑昭和7年版』には、送信所は海山郡板橋庄の地に2階建ての建物で、送信機はテレフンケン社製、アンテナは地上高75mのT型アンテナ、周波数670kHz、出力10kWとある。台湾での番組製作を行う演奏所を台北市文武町2-3新公園内に設けた。また内地からの放送の受信所を淡水郡淡水字砂崙子に設け、14球式真空管受信機2組を設置したとある。これらの施設間を、台北-板橋間(7.112km)を4回線、台北-淡水間(30.044km)を2回線の連絡線でつないだ。これらの施設は1929(昭和4)年10月に着工し、1930(昭和5)年11月竣工、1931(昭和6)年1月15日より本放送が開始された。本放送と同時に台湾放送協会が設立され(同年2月1日)、技術を除く放送事務の一切は協会に委託された。この時、今まで無料であった受信料が有料制(月額1円以内)となったため、9900人(1931年1月末)あった聴取者は半減したそうだ。
図4 板橋送信所(ネットより取得)

図5 淡水受信所(ネットより取得)
 台北演奏所は、現在「台北二二八記念館」として台湾総督府前の和平公園内に残る。二二八とは1947年2月28日から始まった国民党政権による台湾人大量虐殺事件を指す。この記念館には二二八事件の展示とともに台北演奏所時代の資料も展示されているようである。
 台北放送局は1936(昭和11)年7月1日に周波数を750kHzに変更している。

4.台南放送局の設立
 1931年10月には台南放送局の建設が開始される。台湾は島の中央に高峰が連なり、島の北部に位置する台北からの電波が島の中南部には届きにくく、受信状態は悪かった。そこで台北放送局で使用していた1kWの放送設備を台南に移設することにしたのである。台南放送局は1932(昭和7)年3月に竣工、同年4月1日から本放送を開始した。放送は台北放送局の番組を無線中継した。台南では技術を含む一再の事項を台湾放送協会台南支部が担当することとなった。放送局は、台南市桶盤桟大南門遊園地内にあり、送信機は東京無線電機社製、呼出符号JFBK、周波数720kHz、出力1kW、アンテナは地上高55mT型アンテナであった。また、中継受信所を台南市後甲の台南高等工業学校内(現・成功大学)とした。
図7 旧台南高等工業学校(現成功大学)(筆者撮影)

図8 旧台南放送局舎(筆者撮影)

 台南放送局の建物は、現在文化サロンとして使用され、現存している。また、台南高等工業学校の建物も、成功大学キャンパス内に博物館として残り、関連する展示が行われている。
 台南放送局は1941年周波数を1040kHzに変更した。

5.台中放送局の設立
 1935(昭和10)年5月11日、台中市に台中放送局が設立された。場所は台中市新高町水源地公園内、送信機は総督府交通局逓信部製造、アンテナは地上高65mのT型アンテナ、周波数580kHz、出力1kWであった。また、これまで台南では台北放送局の番組を無線で中継していたが、無線中継は空電雑音の混入が多かったため、台中放送局の建設とともに台北・台南・台中を結ぶ有線搬送波中継となった。これと前後して、従来本土の放送(主に熊本放送局の電波)を受信し中継していたが、夏季は空電のため使用困難であったが、1934(昭和9)年7月から国際無線電話(株)の短波設備を利用した短波中継に変更され、状態はすこぶる改良された。
図9 旧台中放送局舎(筆者撮影)

 台中放送局の建物は、現在、台中公園の野球場の北側に現存する。

6.現地語放送・対外放送
 『ラヂオ年鑑昭和8年版』では「台湾では全島450万の人口中内地人は僅かに21万5千に過ぎないが聴取加入者率から言うと、本島人の17%に対し内地人は83%を示している。この加入数の不均衡の原因は言語、趣味、嗜好等を異にする為めであって、両者に対する種目の按排は当事者の殊に苦心する処である。」と述べ、本島人(台湾人)の聴取率の低さを指摘している。内地人とは台湾に移住した日本人のことを指す。加入者率の17%、83%は加入者の割合であって、人口に対する加入者率ではない。このため「国語普及の時間」など日本語学習番組や台湾音楽の演奏などが行われているが、昭和7年段階ではまだ台湾語による放送はない。『ラヂオ年鑑昭和9年版』には「台湾講古」という現地語番組が登場した。1937(昭和12)年7月7日、中国北京郊外の盧溝橋で日中の軍事衝突から中国大陸への戦線が拡大し、これに伴い台北放送局は福建語ニュース(午後・夜各20分)、北京語ニュース(夜15分)、英語ニュース(夜15分)を開始した。1938(昭和13)年8月に広東語ニュース(夜15分)、10月にマレー語ニュース(夜15分)が始まる。1939(昭和14)年12月からは安南語ニュース(夜15分)が開始した。安南語とはベトナム語のことである。また、1942(昭和17)年1月からの番組内に台湾語ニュースがあらわれた。平日朝夕2回となっているが、所要時間は不明である。
 1940(昭和15)年9月28日、民雄放送所が開設、670kHz、100kWの大電力で放送を開始した。1942(昭和17)年10月10日からはこの放送所から第2放送(台湾人向け放送)が行われたとある。この第2放送については『ラジオ年鑑昭和18年版』にわずかな記述があるのみである。記述ではこれを二重放送と称している。「本施設は遠からず実現されるべき島内二重放送の基幹施設として、その活動力は今後に待つところ大なるモノがある。」これが民雄放送所に関する記述で、ラジオ年鑑はこのあと戦後まで発行されなかったので、全容は不明である。また、同誌に「尚二重放送施設として、台北、嘉義に放送所の増設、台南、台中両放送施設の移転何れも17年度中に完成の見込みである。又、放送網の充実を期するため本島東部に花蓮港放送局を新設決定、これ又17年度中に完成の見込みである。」という記述が見える。台北の増設とは、1941年板橋放送所に10kW日本電気製送信機を増設したことを指し、嘉義は、1942(昭和17)年8月31日に嘉義市栄町に新放送局を設置し、周波数1070kHz、500W、アンテナ地上高52mT型アンテナで放送を開始したことを指す。台中は1942年に台中大屯郡北屯庄に北屯庄放送所が開設されたことを指すようだが、台南については不明である。また、花蓮港放送局は1944年5月15日に花蓮港市筑紫橋通の地に開局。周波数1020kHz、100W、台湾通信工業製送信機を使用し、アンテナは地上高39.5mT型であった。

7.広告放送
 ラジオによる広告放送は、日本国内では行われておらず、満州での放送に広告放送が見られることが知られている。『ラヂオ年鑑昭和8年版』には「台湾に於ては放送協会設立の際定款に挿入し許可を得たけれども、……昭和7年6月から6ヶ月間試験的に実施して其の結果によって本格的広告放送に移ることとなった。……実施後間も無く日本新聞協会より広告放送停止方台湾総督へ申出であり、当時契約のあったもの限りで他は中止することとなった。」とある。広告放送は、出資者(宣伝者)から広告料金をとり、日本から演芸者を招いて放送内で演示させるというものである。単純にコマーシャルを流すだけでないところが工夫した点といえるだろう。講談師、落語家、浪花節演者などが呼ばれている。

8.台湾放送協会
 台北放送局においては技術面を総督府交通局逓信部が管理し、台湾放送協会は番組編成や聴取者関係業務を行っていたが、台南・台中では放送に関わる全般を管理した。『ラヂオ年鑑昭和13年版』に掲載されていた組織表を示す。台北を管轄する放送部に技術部がないのに対し、台南・台中には技術部があるのがわかる。
 ところで、台湾の放送は日本放送協会からの番組中継が多いように思われるが、この点について同誌は「台湾の放送は内地中継時間の方が多い様にも見えるが、その比は大体に於て地元は全放送時間の六割以上を、内地中継は四割に満たない。」と述べている。意外と自局制作番組が多いことに驚く。また、日本国内番組を短波にて中継することになった時から月1回第2日曜日の夜間30分間、台湾の番組(講演や音楽)を日本国内に逆に送出している。
 日本国内と植民地を結ぶ放送は「外地放送」と呼ばれていたが、1941年1月からは「東亜中継放送」と呼称されるようになった。東亜とは東アジアのことで、特に日本、満州、中国を指す。これが大東亜圏に発展することになる。連絡調整のための組織として1939年4月「東亜放送協議会」が設置され、日本放送協会、朝鮮放送協会、満州電信電話株式会社、華北広播協会、台湾放送協会が加盟した。

9.ラジオ聴取者の状況
 『ラヂオ年鑑』には、その年の聴取者の動向等の数値が資料として掲載されている。これをグラフ化し、台湾のラジオ聴取者の状況を見てみたい。
(1)ラジオ聴取者加入数
 図10は『ラジオ年鑑昭和18年版』にある「各年度別聴取者増加表」の累計値をグラフ化したものである。1928(昭和3)年度7864名が1941(昭和16)年度には85770名とおよそ11倍に増加している。1930(昭和5年)度に減少しているのは、有料制になったためである。図11に1941年度の内地人(日本人)と本島人(台湾人)の比率を示した。ここにきてようやく拮抗するようになっている。
図10 台湾放送協会加入者数の推移

図11 加入者内訳(1941年)

(2)使用受信機の種別
 図12に使用受信機の種別の推移を示す。1932年には鉱石式と3球式(いわゆる並三ラジオと呼ばれたもの)で過半数を占めていたが、4球式、5球式が多数を占め、鉱石式はほぼ消え去った。5球式はスーパーラジオであろうと推測する。4球式は並四と呼ばれた並三に高周波増幅をつけたものであろう。

図12 使用受信機の種別推移

10.台湾のラジオ塔
 以前、京都のラジオ塔について紹介したが、台湾にもラジオ塔が存在する。台湾のラジオ塔について、『ラヂオ年鑑』等に記述がないかとさがしたが、日本のラジオ塔のみで記述は見つけることができなかった。唯一、『昭和10年ラヂオ年鑑』にJFAKと表示があるラジオ塔の写真があった。これは台北放送局のコールサインであるので、台北二二八和平公園のものと同じものと思われる。このラジオ塔は台湾二二八記念館の中にレプリカと思われるものが展示されており、1934(昭和9)年建造といわれる。また、台中中山公園にもラジオ塔が存在している。これについては詳細は不明である。台湾ではラジオ塔は「放送亭」と称される。台湾にラジオ塔があるということは、戦前日本の植民地であった国にラジオ塔が存在していた可能性があるが、現時点ではそのような情報を得ていない。今後、朝鮮や満州の放送について調べる中で、このことについても注意をはらっていきたい。
図13 台北のラジオ塔(筆者撮影)

図14 台中のラジオ塔(筆者撮影)

図15 ラジオ年鑑の写真

【参考資料】
(1)『台湾~四百年の歴史と展望』伊藤潔著、中公新書、1993.8
(2)『図説 台湾都市物語』後藤治監修、河出書房新社、2010.2
(3)『ラヂオ年鑑』昭和6~15年、日本放送協会
(4)『ラジオ年鑑』昭和16~18年、日本放送協会
(5)「臺灣放送協會」OkaLab(http://okalab.hotcom-web.com/thk.html)
 (5)のサイトには、台南、台中の放送局の周波数・出力等多くの知見をいただいた)

(OG)
 
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