工部大学校址碑 |
地下鉄銀座線虎ノ門駅で下車し、5番出口から地上に出る。霞ヶ関の官庁街の一角に、工部大学校址碑は建っている。かつては三年坂の坂上にあったが、この付近一帯の再開発で、現在の地に落ち着いた。
その詳細は、址碑横に立てられた案内板に詳しい。
千代田区指定有形文化財(歴史資料) 工部大学校址碑 霞ヶ関コモンゲートの一帯、すなわち江戸時代の虎門内延岡藩邸を中心とした地域は、日本の工学発祥の地です。明治六年(1873)工業分野における日本人の人材育成を目的として工学校(工学寮内に設置)が開校し、同十年(1877)には工学寮が工部大学校と改称されました。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科がイギリスをはじめとする諸外国から招聘された外国人教師によって教授されていました。しかし同校は明治十九年(1886)に帝国大学と合併してその工科大学となりました。現在の東京大学工学部の前身です。工部大学校の移転後、同校々地及び建物は、帝室博物館、東京女学館などが使用しました。しかし、大正十二年(1923)関東大震災で工部大学校以来使用されてきた建物も倒壊してしまいました。その後、この土地には会計検査院などの建物が建設されたため、当時の面影がなくなってしまいました。そこで工部大学校出身者たちは、かつてこの地に同大学校があったことを記念して、昭和十四年(1939)「工部大学校址碑」を建設しました。裏面碑文によれば、本碑の素材には関東大震災の際に倒壊した建造物の煉瓦などが用いられています。「工部大学校址碑」は、千代田区内において日本最初の工業技術教育機関が設置された場所を示しつつ、その歴史を公正に語りかけてくれます。さらに、震災で倒壊した建造物の廃材を素材としていることで、震災によって大きな打撃を受けた千代田区の歴史をも伝えてくれているのです。 平成六年三月 千代田区教育委員会 (平成22年10月補修) |
銘板 案内板にあった碑文