築留二番樋 Updated on 2008.04.11 |
築留二番樋は、大和川の水を農業用水路の長瀬川・玉串川に取水するために設けられた。明治末期から大正期に造られたといわれ、アーチ部の幅は1.6mある。長さは約55mで、天端と底面に花崗岩が使われている。
水辺には文化庁の登録有形文化財の碑が建っており、次のような説明がある。
この樋は明治四十年頃に築造され イギリス積みといわれるレンガ積 みで笠石部が花崗岩の樋である。 逆アーチ型の側壁は美しいカーブ をつけて仕上げられており、平成 十三年十二月に文化庁の有形文化財 に登録されました。 平成十四年 築留土地改良区 |
中甚兵衛像 大和川付け替え250年記念碑
大和川付け替え起点の碑 起点の碑の横を通る近鉄道明寺線大和川橋梁
大和川の付替え工事については、起点の碑の横に説明の掲示板が次のように記している。
大和川付替え 付替え以前の大和川はいくつかに分流しながら河内平野を北方に流れ、淀川と合流していました。天井川化が著しいため、流域は頻繁に洪水にみまわれていました。江戸時代に入ると、今米村(現、東大阪市)の庄屋中甚兵衛を中心とした農民たちが付替えを幕府に何度も嘆願しました。しかし、付替え地流域の反対意見や、河村瑞賢による治水工事の進言もあって、一旦、天和3年(1683)に付替え不要が幕府で決定されました。 その後、付替え促進派のさらなる嘆願により、元禄16年(1703)10月付替えが決定されました。工事は翌年2月には開始され、延べ245万人をかけ、わずか8ヶ月という短期間で宝永元年(1704)10月13日に竣工しました。このとき、落堀川の掘削や西除川の改流なども行われました。 付替えによって、旧川筋では鴻池新田など多くの新田が開発され、米作りや、綿花栽培などが盛んになりましたが、新川筋では、舟運の衰退、川床となった田地に関したトラブル、左岸の浸水被害、土砂流出による堺港の沖への移動などの弊害も生まれました。 藤井寺市ではこの付替えにより発生する浸水対策として、小山・北条の2カ所で雨水排水用ポンプ場を建設しています。この工事に先立ち、左岸堤を断ち割る発掘調査を実施しました。これらの調査で堤盛土の下に旧耕作土の畝が残されており、特別な整地をせずに堤防が築かれたことがわかりました。また、堤の鋼土は地山(もとの地盤)と土質がよく似ており、落堀川を掘削しつつ、築堤した可能性が考えられます。 工事規模 大和川 幅約180m、延長14.3km 落堀川 幅約 30m、延長13.2km 平成15年3月 藤井寺市教育委員会 |
■所在地:柏原市上市2丁目320 ■交通:近鉄大阪線「安堂駅」下車、徒歩5分 |