戦前のインドネシアの報時局 2023.5.25 |
(a)Weltevreden PKB(PNA) |
図1 インドネシア・ジャワ島地図 インドネシアには、16世紀からオランダが進出し、東インド会社が設立された。1800年にはインドネシアのほぼ全域がオランダの統治下に入ったことから、戦前は蘭領東インド(蘭印)と呼ばれた。太平洋戦争開始後の1942年3月に日本軍が占領した。 Wertevredenはバタビア(Batavia:現ジャカルタ(Jakarta))の小地区で、報時局は1920年に開設された。周波数500kHzの電波は1:00に発出された『理科年表』第6冊(1930)では、コールサインがPNAと変更されている。同書第7冊(1931)からは記載がなくなった。この局に時報信号を提供していたのは、同じバタビア地区の王立磁気気象天文台(Royal Magnetic and Meteorological Observatory)である。この天文台はオランダにより1865年に設立された。『東洋燈臺表』1927年版に掲載されているPKB局の送信フォーマットを表1に示す。 図2 バタビア天文台 表1 PKB局の送信フォーマット |
(b)Malabar PKX・PLA・PLO |
図3 バンドンの地図 図4 オランダの地図 Malabarはバンドン市の南約20kmの山中にある。Malabar山の山麓の峡谷に送信所が造られた。ここからPKX局は周波数19.2kHzで、1:00に報時信号を発した。『理科年表』第9冊(1933)には、PKX(19.2kHz)、PLA(19.2kHz)、PLO(11440kHz)と3波の記載があるが、いずれも1:00が報時時刻となっており、これではPKXとPLAの違いがわからない。おそらく、コールサインがPKXからPLAに変更されたものがそのまま併記されたのではないかと思われる。この頃には短波が使われたようだ。『東京天文台 無線報時史』には、PKX局の受信が1938年まで行われたとある。 このMalabarの無線局は、オランダ本国と直接長波で通信するために建造された送信所である。20世紀の初め、オランダは蘭印との通信にイギリスやドイツが布設した海底ケーブルを通じて通信を行っていたが、第1次世界大戦でケーブルのハブ基地であるヤップ島が日本軍によって占領されたことを契機に、技術的にも政治的にも不安定な海底ケーブルではなく長波を使った直接通信(距離にして約12,000km)を試みることとなった。まず,オランダ本国に送信所を建設した。Kootwijk送信所が1923年に建設され、テレフンケン社製400kW高周波発電機を使用して、コールサインPCGで、24kHzと48kHzの長波が用いられた。この送信所の建物は現存している。この時の受信所がSambeek受信所で、Kootwijk送信所と蘭印を結ぶ方向に直角の位置が選ばれた。この送信所には高さ60mの4本の塔が建設され、1923年に完成している。その後、アムステルダムに受信した内容を送る手間が面倒であることから、1928年にNoordwijkに受信所は移転している。このSambeekを地図で見ると、Radioweg(無線通り)という名称の通りがある。大きなアンテナ柱を見てつけられた名前であろう。 図5 Kootwijk送信所 図6 Sambeek受信所 一方、ジャワの方は、C.J.de Grootを責任者に、大出力の送信設備を持った送信所の建設が1922年から始まった。送信機は2400kWのアークランプ送信機で、アーク放電の火花を磁力で閉じ込めるもので、強力な電磁石を必要とした。 アンテナは、近くの山腹に沿って2kmに渡って平行線を張ったものを使用した。 1923年5月5日、正式な開所式が行われた。ところが当日は山峡に落雷があり、正常に動作しなかった。正常な運転は5月7日からであった。 図7 Malabar送信所 図8 MalabarのRantja Ekek受信所 図9 2400kWアークランプ送信機 この送信所は、1942年3月にKNIL(Koninklijk Nederlands Indisch Leger:蘭領東インド植民地政府が保有していた地上軍)の兵士により爆破されたといわれている。現在は、ジャングルの中に緑に包まれた廃墟のみが残る。 図10 廃墟となったMalabar局の建物跡 『東京天文台 無線報時史』には、短波11660kHzで1945年1月~3月までPLNという局の受信記録がある。時間は5:00である。この局については欄外に「Java占領地ヨリ日本軍ニ依ツテTime Signal発信.宮地政司氏 Mar.20th中止」とある。この宮地氏とは測地学委員会技師で、三鷹国際報時所に勤務していたが、1941年に応召され、1946年に復員してきた。応召後はマレー、スマトラを経て東部ニューギニアにいたところを、経度観測のためにインドネシアに転属させられ、ボスカ天文台勤務となった。天文台では時報の送受も行ったので、前述のような受信記録が残る。宮地氏の手記が『天文月報』に掲載されているが(*3)、戦争中の学者たちの苦悩や努力の跡が読み取れる。ちなみに宮地氏が最初にいた東ニューギニアの原隊は全滅したのだそうだ。人の運命は"神のみぞ知る"だ。このPLN局はこれ以外にはどこにも出てこない。 先の爆破の話からすると、このPLN局はMalabar送信ではないのではないか。しかし、別の資料では、1947年のオランダからの独立闘争の中で、熱狂的なスカルノの支持者によって爆破が行われたという。こちらの方がしっくり収まる話だ。 Malabar局に時刻情報を提供していたのは同市内にあるボスカ天文台(Bosscha Observatory)である。天文台は1923年から建設が始まり、1928年に竣工した。マラバーのお茶のプランテーション経営者Karel Albert Rudolf Bosschaが資金を寄付したので、ボスカ天文台と名づけられた。 図11 ボスカ天文台 PKX局の送信フォーマットを表2に示す。 表2 PKX局の送信フォーマット (*3)宮地政司「ジャワに残した観測データ」『天文月報』(68巻)1975年10月号 |
(c)Surabaja PKH(PNB) |
Surabajaはジャワ島の東に位置する都市で、この地からPKHというコールサインで報時電波が出されていた。『東洋燈臺表』によれば、この局はSurabaja桟橋に繫留されていたKoning
der Nederlanden号という船の船内無線電信局からの送信であった。この局の開設は1921年、周波数500kHzで14:10、14:12、14:14に1短符の報時信号を出した。それぞれ送信の30秒前から予告信号を出し、1回目の送信前には長符の連送、2回目の送信前には-・・の連送、3回目の送信前には-・・・の連送を行った。日曜・祝日は休みだった。同書「1927年版」では送信時刻が2:10、2:12、2:14に変更されている。『理科年表』第6冊(1930)ではコールサインがPNBと変更された。同書第7冊(1931)では、先のWertevreden(PKB)局とともに記述がなくなり、インドネシアの局はMalabar(PKX)局のみとなった。 図12 Koning der Nederlanden号 【図の出典】 図1 インドネシア・ジャワ島地図 筆者作成 図2 バタビア天文台 https://www3.astronomicalheritage.net/index.php/show-entity?identity=125&idsubentity=1 図3 バンドンの地図 筆者作成 図4 オランダの地図 筆者作成 図5 Kootwijk送信所 "90 jaar radio Malabar - eerste radiotelegrafieverbinding(1923-2013)" http://www.willemsmithistorie.nl/index.php/historische-nieuwsflits/300-eerste-radiostation-malabar-1923-2013 図6 Sembeek受信所 http://www.heemkunde-stevensbeek.nl/radioweg/ 図7 Malabar送信所 "Radiostation Malabar - En Overige Stations op de Bandoengsche Hoogvlakte", Gouvernementes Post - Telegraaf en Telefoondienst in Nederlandsch-Indie, Juni 1928 図8 Rentja Erek受信所 同上 図9 Malabar送信所の2400kW送信機 同上 図10 Malabar Radioの建物跡 GoogleMapより 図11 ボスカ天文台 https://www3.astronomicalheritage.net/index.php/show-entity?identity=125&idsubentity=1 図12 Koning der Nederlanden号 Wikipedia(英語版)"HNLMS Koning der Nederlanden" |
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