樺太の気象観測所の報時信号 
<BACK>  update:2024/05/27
1.はじめに
 『日本無線史』第12巻(外地無線史)の第1章総論第5節外地無線施設数に、外地無線施設統計(1941.11現在)という表がある。外地とは、戦前に日本の植民地であった地域を指し、朝鮮、台湾、樺太、関東州、南洋群島がこれにあたる。この表の中に「報時気象放送局」という欄があり、唯一樺太に1局あったことが記述されている。この表は逓信省工務局が編集した『本邦無線電信電話局所設備一覧表』を参考に作成されたもので、昭和16年3月末現在の記載となっている。

 『日本無線史』同巻の樺太の章を見ると、気象無線として「昭和14年大泊測候所に短波無線送信装置を、真岡、本斗、知取、恵須取、敷香に受信装置のみを施設し、専ら島内気象観測の通信連絡に当たっていたが、その後北方気象の重要性が加わるにつれ、これらの施設のみではその要求を充し得ない状態となり、昭和17年豊原に樺太気象台が建設された。」とある。

 どうやら大泊測候所あるいは樺太気象台が報時気象放送を行っていた公算が高い。そこで樺太の気象台について調べ、この報時放送の実態を解明しようと考えた。

2.樺太概略

図1 樺太地図(1943年頃)


 樺太は、現在の樺太島(サハリン島)南部を指す。1905(明治38)年、日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)により、樺太島の北緯50度以南が日本領に帰属となり、樺太庁が置かれた。領有は日本の敗戦まで続いた。1906(明治39)年末には樺太軍用鉄道が敷設されている。1908(明治41)年3月内務省告示により樺太のロシア語読みの地名が日本語読みに変更され、コルサコフが大泊に、ウラジミロフカが豊原になどとなった。また、1943(昭和18)年4月には樺太は内地に編入された。

3.樺太の気象観測所

図2 大泊地図

図3 大泊観測所(1935年頃)

 樺太の気象観測所のはじまりは1905(明治38)年10月のことで、第10臨時観測所が大泊に開所した。場所は、46°40'N、142°46'Eで、この観測所は、1918(大正7)年、樺太庁大泊観測所となり、1941(昭和16)年9月に豊原に樺太庁気象台が開設すると、機能が移管され、

大泊測候所となった。樺太気象台は、北方の気象観測活動の拡充のために開設されたもので、敗戦直前の8月11日に北海道札幌管区気象台豊原支台となった。戦後、樺太気象台は、ロシアの水文気象環境監視局サハリン測候所となっている。

図4 豊原地図

図5 樺太庁気象台(1941年頃)

4.時の測定と報時

 大泊観測所開設当初は、日時計により時計を補正していたが、1910(明治43)年9月にスイス・ナルダン社製の時辰儀を購入し、これを使用して六分儀で観測し、時刻を決定した。時辰儀とはクロノメータのことで、スイスのル・ロックル市にあるUlysse Nardin社のクロノメータは高品質で知られ、1862年のロンドン博覧会に出品し最高位を受賞したほどであった。

図6 Nardin社製時辰儀

 1921(大正10)年5月、無線受信設備が設置された。『気象百年史 資料編』には「大正10年5月無線受信設備ト共ニ東京無線局経由東京天文台放送ノ中央標準時ヲ受信シテ時辰儀ノ修正ヲ施シ、鉄道事務所ヘハ直通電話ニヨリ報時シテ同所ノ時辰儀ヲ修正セシメ鉄道標準時トセリ。」とあり、樺太鉄道局の時刻修正にも関わっていたことがわかる。ここには東京無線局とあるが、東京無線電信局が誕生したのは1923(大正12)年のことであり、それまでは船橋無線電信所が報時を分担していたので時期的に合わない。また受信局についてだが、1932(昭和7)年当時の観測所の受信設備の写真をみると、短波受信機と受信範囲が不明な真空管式受信機があり、時代が中波・短波の時代に移っていたことを考えると、東京電信局の75kHzを受信していたよりも、銚子の500kHzを受信していた可能性の方が高いと思われる。

図7 大泊観測所の受信設備(1932年頃)

 1926(昭和元)年12月には、庁舎3階の側面にT字型電灯式報時信号標を設置し、毎日19:55JSTに点灯し、20:00JSTに消灯した。前記の『気象百年史』には「正時の普及」という目的が書かれている。1934(昭和9)年4月には電気サイレン式の報時に変更となった。これについては昭和9年3月告示の「報時信号規程」に「樺太庁観測所庁舎屋上に(モーターサイレン)ヲ設備シ昭和9年4月1日ヨリ左記方式ニ依リ報時信号ヲ開始ス 記 吹鳴開始 午前11時59分30秒 吹鳴停止 正午」とある。報時は正午の30秒前にサイレンを鳴らし、正午ちょうどに止めるようになったのである。

5.樺太の無線局

 『本邦無線電信電話局所設備一覧表』(昭和11年3月末現在)をみると、樺太には大泊と豊原に無線電信局があると記載がある。大泊無線局は、コールサインJTW、海岸局として1921(大正10)年8月21日に開局した。真空管式中長波3kW送信機でA1:720/128/143kHzとA2:391/900kHzで、木柱75m高の逆L型と木柱30m高の垂直アンテナから送信をしていた。無線局は大泊郵便局無線電信室が正式名称である。豊原無線局は、コールサインJTY、1931(昭和6)年8月1日に開局した。東京無線製真空管式短波2kW送信機でA1:3530/ 4270/ 5990/ 6890/ 9060/ 11580kHzで、30m高の鉄塔に架設された垂直アンテナから送信していた。無線局は豊原郵便局無線電信室と称した。1937(昭和12)年に恵須取無線電信局が開局した。コールサインJTX、真空管式長中波送信機で、500/383/143/131/95kHzで、T型、逆L型アンテナから電波が発射された。

図8 大泊郵便局無線電信室

図9 豊原郵便局無線電信室

6.見つからなかった無線報時

 報時についての記述はここまでで、無線報時についての記述はこれまでに参照した資料にはなかった。『帝国日本の気象ネットワークⅣ 樺太庁』には昭和12年までの記述しかないため、1939(昭和14)年に大泊測候所に配置された短波無線送信設備や、1942(昭和17)年に開設された豊原気象台に配備された1kW短波送信機の設備については不明のままである。
 『日本無線史』第12巻にあった『本邦無線電信電話局所設備一覧表』は、国会図書館のディジタルコレクションで発見できたものの、昭和11年3月末現在のもので、昭和16年3月末の同書は国会図書館にも蔵書されていなかった。おそらく『日本無線史』の編集委員の誰かが個人的に所有していたものではないかと思われる。したがってこの線からたどる糸は切れてしまった。
 ひとつ手がかりになると思われるのが「樺太庁気象機関整備要領」(1942年3月9日付)である。これは北方気象観測の重要性が増す中で、1941年9月に豊原気象台を設置し、樺太の気象観測態勢を充実させる目的の文書である。この文章の中の「3.其の他」に次のような記述があった。
「(1)3月21日零時ヨリ現在大泊ニ於テ放送中ナル短波放送ヲ豊原ニ於テ実施ス、・・・」
「(3)大泊無線局放送ノ丙類気象放送ハ将来豊原気象台ニ於テ実施スベキモ、ソノ設備完成マデ(3月21日以降)豊原ヨリ電話ヲ以テ大泊無線局ニ連絡従来通リ放送ス、此ガ為毎日8時45分、14時45分、20時45分ヨリ各9分間電話予約ヲナスモノトス(豊原郵便局及大泊郵便局ニ連絡)」
「(4)鉄道気象並ニ鉄道ニ対スル時報ハ3月21日以降豊原ヨリ之ヲ発ス・・・」
 上記の文書からは、大泊測候所から丙類気象放送が短波を使って放送されていたということがわかる。丙類気象放送とは、船舶に対する気象放送を指す。戦前は、甲類が海軍、乙類が航空、丙類が船舶という分類であった。大泊測候所に短波送信機が配備されたのは1939(昭和14)年であり、これ以降気象無線が行われていたと思われる。同時に、無線報時も行われていた可能性がある。また、(4)の文書には鉄道に対する時報の連絡も大泊測候所の任務であったことがわかる。大泊の仕事が豊原気象台に引き継がれ、短波送信機(1kW)の配備も行われた。勅令第874号『樺太庁気象台管制』の第1条には気象台の任務が記されており、この中に「6.時ノ測定及報時」とある。1942年3月21日以降、気象放送とともに報時放送も行われたのではないかと考えられる。

7.おわりに
 以上のように樺太の無線報時について、わずかではあるがまわりを埋めることはできたものの、肝心のところには到達できなかった。今後、新たな手がかりが得られるよう調査を進めたい。


【参考】
・『日本無線史』第12巻(外地無線史)、電波監理委員会、1951.6
・『本邦無線電信電話局所設備一覧表』、逓信省工務局、1936.3
・『帝国日本の気象ネットワークⅣ 樺太庁』、山本晴彦、農林統計出版、2017.7
・『気象百年史 資料編』気象庁、1975
・『観象便覧』昭和10年、樺太庁観測所、1934.12

【図の出典】
図1 筆者作成
図2・3・4・5・7 『帝国日本の気象ネットワークⅣ 樺太庁』より
図6 http://www.wessen.jp/ao64.html
図8・9 『日本無線史』第12巻より


(OG)
 

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