測量用無線時報 
<BACK>  update:2024/10/28
1.はじめに
  『日本無線史』第4巻(無線事業史)の第2章無線電信事業の中に「無線報時」の項がある。この中に1923(大正12)年8月20日から約1ヶ月間測量用無線時報を送信したという記述がある。原文は以下のようである。
「これより先、大正十二年八月陸軍測量部及び文部省測地学委員会より逓信省に交渉があり、八月二十日から約一ヶ月間船橋無線電信局から測量用無線時報を送信したことがあった。これは学術的な符号構成であった。翌大正十三年も八月五日から九月十一日までこの時報を送信し、また大正十四年にも七月十五日から八月二十日迄毎日(日曜日を除く)従前の例に依って時報を送信した。」
 ここでは「報時」ではなく「時報」ということばが使われている。これはいったい何のための送信だったのだろうか。1923年から3年間、しかも夏の間に行われた特別送信についてさぐってみることにした。

2.逓信公報

  この特別送信については、1923(大正12)年8月20日付の逓信公報 信第1425号の「測量用無線時報発信ニ関スル件」が内容を報じている。以下がその内容である。
 
信第1425号 大正十二年八月二十日 逓信局
測量用無線時報発信ニ関スル件
東京無線電信局ニ於テ本日ヨリ九月二十日マデ毎日(日曜ヲ除ク)午後十一時ヨリ約七分間左記方法ニ依リテ文部省測地学委員会測量作業ニ便スル為天文台ヨリ発スル時報ヲ発信可致候間御了知置相成度候
一、発信電波長 火花式四千「メートル」
二、時 報 符 号 午後十一時ヨリ約一分間準備符
        ヲ送リ次テ約五十秒間東京局名符号「JJC」ヲ送リ約十秒間休止シ
         タル後約五分間恒星時秒ヨリ約1/50短キ時刻ノ秒打信号ヲ三百打連
         送ス但シ該秒打信号ノ第六十、第百二十、第百八十、第二百四十、
         及第三百秒打ノ信号ハ之ヲ省略ス 

 ここでも「報時」ではなく「時報」が使われている。思うに、継続的に時間を知らせることを「報時」と呼び、特定の時間を知らせることを「時報」といって区別してたのではないか。同様の通牒は「電業第872号」(1925(大正14)年7月9日)、「電業第1652号」(1926(大正15)年7月17日)にもある。前文は同じであるが、項目が少し異なるので「電業第1652号」を見てみよう。

一、発信電波長 持続電波七千七百「メートル」
一、時 報 符 号 (一)午後十一時ヨリ一分間準備符号トシテ ・-・-・ ヲ
             三回送信シタル後 ・・・- ヲ連送ス
           (二)午後十一時一分ヨリ約一分間JJC(東京無線電信局呼出符号)ヲ
              連送シ最後に -・・・- ヲ送信ス
           (三)約三秒ヲ経テ平均太陽時一分間六十一秒打ノ割合ヲ以テ三百六秒打連送ス但シ第一、
             第六十二、第百二十三、第百八十四、第二百四十五及第三百六打ニ当リ「ダッシュ」ヲ代
             送ス 

 船橋無線局JJCは、1923年に海軍の船橋無線電信所が東京霞ヶ関に移った際に名称が東京海軍無線電信所となったことから東京無線電信局と名称変更をしている。また、当初は火花式4000m(75kHz)送信が、1925(大正14)年に7700m(39kHz)送信となっている。送信方法の中で「約1/50短キ時刻ノ秒打信号ヲ三百打連送」とあるのは、いわゆる学用式と呼ばれる報時形式で、50秒間に49個の信号を送るものである。これによって約1/100秒の精度で時刻の読み取りが可能となる。『日本無線史』の中で「学術的な符号構成」とあるのはこの方式を指す。

3.測量用とは何を指すのか

  さて、ここで問題となるのは測量用とある測量とは何かである。1923(大正12)年といえば、9月1日に関東大震災が起こっており、この地震による陸地の移動量の測定ではないかと最初は考えた。しかし、逓信省に交渉があったのは地震直前の8月であり、これは成り立たない。そこで、陸軍測量部や文部省測地学委員会のキーワードから探してみることにした。

(1)陸軍測量部
 陸軍測量部は、それまで各省ごとに行っていた測量・地図作成を統一して行う機関として1888(明治21)年に創立した。測量・地図作成については参謀本部が管轄することにしたのである。1931(昭和6)年の満州事変以降は、地図の販売等は規制を受け、検閲・許可制となった。1875(明治8)年から内務省を中心にすすめられていた日本国内の五万分の一地図が1924(大正13)年に完了する。したがって1923年頃は二万五千分の一地図作成の取り組みが始まっていたのではないか。これが一つ目の案である。

(2)文部省測地学委員会
 測地学委員会は、1898(明治31)年に創設された、「文部大臣ノ監督ニ属シ万国測地学教会ニ関スル事務ヲ掌理シ及測地学ニ関スル事項ヲ攻究ス」る機関である。1889(明治22)年に日本は万国測地学協会に加盟した。万国測地学協会では地球の緯度変化を詳しく調べることが取り決められ、日本では観測所設立のため測地学委員会が設置されたのである。測地学委員会によって行われた事業には、(1)基線測量、(2)平行圏孤長測量、(3)垂直線偏差の観測、(4)国内の重力測定、などがある。このうち時期が重なるものに「垂直線偏差の観測」がある。これは1903(明治36)年から始まり、1923(大正12)年までに関東地方の観測が終了、その後は陸地測量部が観測を引き継ぎ、1927(昭和2)年まで実施された。測地学委員会は、戦後は「測地学審議会」に引き継がれた。したがって、「垂直線偏差の観測」が第2案である。

4.垂直線偏差の観測だった
 決め手に欠ける状態が続き、あれこれ思案していたが進展が見込まれないため、再度手持ちの資料を吟味してみようと調べ直しを行ったところ、ようやく見つけた。『東京天文台 無線報時史』第2部資料編に出ていた。ここには「日本に於ける無線報時発信諸元の変遷」が1911(明治44)年12月~1959(昭和34)年3月まで記載されている。この中に「大正13 1924 8/1~9/10 JJC 船橋 4000m 14h00U.T. 学用 98s/100dots 垂直観測用」と出ているではないか。初回の1923(大正12)年のものは記載がなかったが、1925(大正14)年、1926(大正15)年、1927(昭和2)年、1929(昭和4)年、1930(昭和5)年に同様の記載があった。観測は垂直線偏差の観測のためだったのである。



5.垂直線偏差とは

  「垂直線偏差」とは、高校で「地学」を学んだ経験がない筆者には初めて聞くことばである。ご存じの諸兄もおられると思うが、改めて取り上げてみる。

図1 垂直線偏差

 人間は当初地球が平板のような形だと考えていたが、その後経験や観測から球体だと知るようになる。現在では完全な球体ではなく、赤道部分が膨らんだ楕円体だとされる。この楕円体の表面に垂直に立てた線が垂直線である。一方、天体観測などでは重力による鉛直線が使用されている。通常の我々の生活ではこの2つの線は同じだが、精密に測定すると異なっている。それは重力が地球内部の密度の違いのために場所によって変わるためである。そのため海岸のような陸地と海洋の境界では、陸地の方が密度が高いため、鉛直線はわずかに陸地側に向かう。この差を垂直線偏差または鉛直線偏差と呼ぶ。これはその土地の測地した緯度・経度と天文観測上の緯度・経度に誤差を生む原因となる。

6.測量用無線時報の運用実績
 表1に『東京天文台 無線報時史』第2部資料編に掲載されている垂直線観測用と書かれた時報信号の運用状況を示す。また、同書の別の表には1928年のものもあったので、表1に追加してある。ここにはなぜか1923(大正12)年の記載がないので、これを含めれば8年間にわたって測量用時報信号を送信していたことになる。

表1 垂直線偏差観測用時報の運用状況

7.おわりに

 東京の麻布台に「日本経緯度原点」がある(図2)。これは日本の経緯度の基準点を示すもので、かつてこの地に東京天文台があったとき、天文台の子午環の中心を原点としたものである。北緯35°39'29"1572、東経139°44'28"8869が原点の経緯度である。この付近の垂直線偏差は、海洋側に日本海溝が、山側に日本アルプスがあるため偏差が大きい。原点付近の偏差は、緯度方向に+9.46"、経度方向に-9.35"とのことである。普段私たちは重りを垂らした方向が地球の中心に向かっていると思っているが、天文地理を仕事としている人たちにとってはそうではないことが今回の調査を通じて理解できた。

図2 日本経緯度原点

【参考】

・『日本無線史』第4巻(無線事業史)、電波監理委員会、1951(昭和26)年9月
・『私設無線電信関係法令集』神戸高等商船学校編、海事教育振興会、昭和2年
・「測地学委員会官制」勅令第84号、1898(明治31)年4月26日
・『東京天文台 無線報時史』第2部資料編、天文時部経度研究課、1960年2月
・暦Wiki「経度と緯度」https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/C3CFB5E52FB7D0C5D9A4C8B0DEC5D9.html

【図の出典】
図1:暦Wiki「経度と緯度」
図2:Wikipedia「日本経緯度原点」


(OG)
 

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