足尾銅山 博物館・産業遺産見てある記 | ||||
《HOME》 Update: 2016/11/28 | ||||
足尾銅山は、16世紀頃から採掘がはじめられ、江戸時代には幕府の御用銅山となり生産量は増加したが、江戸末期には廃山同然となった。1877(明治10)年に古河市兵衛が銅山を買収し、鉱山開発を行った結果、良い鉱床を発見し、以後隆盛した。1890(明治23)年には間藤水力発電所を新設し、電気ポンプ、電気巻き上げ機、電気鉄道などの近代化が行われた。また、1893(明治26)年にはベッセマー転炉による錬銅法を日本で最初に実用化した。 銅山が発展するにしたがい、精錬過程で発生する亜硫酸ガスや煙害、採鉱・選鉱・精錬の過程で発生する重金属を含んだ廃水が公害問題を発生させた。この「足尾鉱毒事件」は広く知られることとなり、明治政府は「鉱毒予防工事命令」を発し、堆積場・沈殿池・ろ過池・脱硫塔などの設置を命じた。 1973(昭和48)年に足尾銅山は閉山し、輸入鉱石の製錬が行われていたが、1988(昭和63)年に精錬所の稼動も停止した。その後、古河掛水倶楽部が国登録有形文化財(2006)に、通洞坑・宇津野火薬庫跡が国史跡(2008)に、古河橋が国重要文化財(2014)に、本山坑・本山動力所跡・本山精錬所跡・本山鉱山神社跡が国史跡(2014)に指定された。 足尾銅山の見学地は大きく5つに分かれる(パンフレット『足尾まち歩き』を参照)。(1)通洞エリア、(2)本山坑エリア、(3)松木エリア、(4)小滝坑エリア、(5)東部エリア。今回はこのうち(1)、(2)、(4)の3つのエリアを訪問したので以下に紹介する。 (1)通洞坑エリア (A)足尾銅山観光 1980(昭和55)年にオープン。通洞坑の坑内を見学することができる。坑内へはトロッコ列車で入坑するが、坑内に入ってすぐに降車することになる(ちょっと短すぎる!)。あとは坑内を歩いて見学する。江戸・明治大正・昭和の各時代の採掘の様子を多数の人形で展示している。また、寛永通宝銭を製造する様子を再現した「鋳銭座」という建物もある。足尾銅山のことを分かりやすく知るにはよい施設である。 銅山観光入口 入坑前のトロッコ 通洞坑 坑内の様子 時代毎の採掘の様子 銅のインゴット 削岩機体験コーナー (B)新梨子油力発電所跡 重油による非常用電力供給のための発電所。1916(大正5)年に完成、1954(昭和29)年に廃止される。出力1000kW。 (C)通洞動力所跡 削岩機の動力源である圧搾空気をつくる。1912(明治45)年にインガーソルランドPE-2大型コンプレッサが導入された。建物の崩壊は2015年の積雪によるもの。 (D)通洞変電所跡 対象末期以降、足尾銅山の使用電力を管理する中枢機能を果たした。 (E)通洞選鉱場跡 坑内で採掘された鉱石を選別し精錬所へ送るのが選鉱場である。通洞選鉱場は1889(明治22)年に開設され、1916(大正5)年から浮遊選鉱を操業した。通洞選鉱場の操業により、小滝・本山の選鉱場は廃止された。 (F)中才沈殿池 鉱毒対策のため1897(明治30)年に設置。通洞坑の廃水を処理した。現在も浄水処理が行われている。 (2)本山坑エリア (A)本山精錬所跡 1884(明治17)年、銅の産出増に対応するため開設された直利橋分工場が前身である。1890(明治23)年には大型溶鉱炉による精錬が開始され、1893(明治26)年には転炉による錬銅を開始した。1910(明治43)年、新工場が竣工した。 (B)古河橋 木造の直利橋が焼失したあとに、1890(明治23)年に架けられた橋である。架橋当時のまま現存する橋で、2014(平成26)年に国重要文化財に指定された。橋のたもとにある説明板には以下のようにある。
(C)本山動力所跡 削岩機の動力源である圧搾空気をつくる。1914(大正3)年には通洞動力所に続き、インガーソルランドPE-2大型コンプレッサが導入された。内部には現在も大型コンプレッサが残り、建物の割れたスキマから見ることができる。 (D)本山坑跡 1883(明治16)年に江戸時代からあった旧坑道を再開発したもの。2014(平成26)年に国史跡に追加指定された。 (E)古河掛水倶楽部・掛水赤煉瓦倉庫 古河掛水倶楽部は、古河鉱業が1899(明治32)年に建設した洋館で、迎賓館として使用された。掛水赤煉瓦倉庫は、鉱業所事務所の重要書類を収納していた。 (F)間藤水力発電所跡 1890(明治23)年に造られた水力発電所で、わずかに鉄管の一部と土台の一部が残る。説明板には次のようにあった。
(F)深沢の赤煉瓦防火壁跡 (F)旧古河鉱業間藤工場(現古河キャステック) 1900(明治33)年に建てられ、輸入機械をモデルに独自の機械を生産するようになる。1914(大正3)年には足尾式削岩機が考案された。 (3)小滝坑エリア (A)小滝坑跡とその周辺 1885(明治18)年、江戸時代からあった旧坑道を再開発したもので、1954(昭和29)年まで使用されていた。庚申川の渓谷沿いに坑夫の住宅や商店・学校などがあった。最盛期には約1万人が暮らしていたといわれる。説明板の解説を以下に示す。
初期の小滝坑口跡 火薬貯蔵所跡 削岩機試掘跡(中央の白い石に穴がみえる) (B)坑夫浴槽跡・綱引き練習場跡 (C)小滝選鉱場・精錬所跡 (D)足尾銅山私立小滝尋常高等小学校跡 (E)廃石堆積場跡 畑尾廃石堆積場跡 宇津野廃石堆積場跡 (F)中国人殉難烈士慰霊塔 太平洋戦争末期に257名の中国人が中国から強制連行され、足尾銅山の労働に従事させられ、109名が命を落とした。
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