愛媛県新居浜市にある別子銅山関連の産業遺産は、新居浜市の作成したウェブページによれば、市内北側の「口屋」、「惣開」、「星越」と、JR新居浜駅南側の「山根」、「立川」、山岳部にある「端出場」、「東平」、「銅山峰・東延」と広範囲にわたる。このほかに今治市に属する「四阪島」がある。今回、市内部と「端出場」を訪れた。地図については、上記の「産業遺産[新居浜]データベース」がよくできており、参考になる。
口屋(くちや) | 惣開(そうびらき) | 星越(ほしごえ) | 山根(やまね) | 端出場(はでば) |
【自彊舎】
建物の横に立つ新居浜市の説明文には以下のような記述がある。
『自彊舎は、もともと明治45年(1912)に旧別子の風呂屋谷で、会社の舎屋を借り受けて鷲尾勘解治の私塾として開かれたものである。鷲尾は自ら志願して坑内で働いた経験から、青年坑夫の精神的な向上を図る必要性を痛感して、総理事の鈴木馬左也に、学生時代の禅の修業経験を加味した教育を行うことを申し出て了承を得て開塾した。
自彊舎の名は中国の古典の「天行健 君子以自彊不息」(天行健なり。君子を以って自ら彊(つよ)めて息(やす)まず。)から取られた。「おのれを修め、人に交わり、学問に励み職責を全うして、怠ることがあってはいけない。」という意味で鈴木総理事によって命名された。
採鉱本部の移転に伴い、自彊舎も旧別子から東平、川口新田へと時代とともに移転した。戦後になって社団法人自彊舎記念会を結成し、菊本町に元塚自彊舎道場を建設して活動を続けている。』
1888(明治21)年に惣開精錬所が竣工し操業を開始したことから、惣開には多数の建築物が建てられた。その後、1893(明治26)年には別子鉱山鉄道が開通し、下部鉄道の始発駅となった惣開は物資輸送の窓口となった。こうした中で、住友病院(1901年竣工)、住友銀行新居浜支店(1901年竣工)などが建てられた。
【旧住友病院】
【住友化学歴史資料館】(旧住友銀行新居浜支店)
【惣開の碑】
碑の横にある説明文には以下のような記述がある。
「總開(そうびらき)之記」碑
この碑は、明治二十三年、別子開坑二百年祭を記念し当時、住友家の総理であった広瀬宰平(ひろせさいへい)が、總開(そうびらき)の由来とその発展を祝って建てたものです。書は明治の三舟(海舟、鉄舟、泥舟)の一人である高橋泥舟が書いたものです。
1925(大正14)年に新居浜選鉱場が竣工し、下部鉄道星越駅が設置された。その後、1929(昭和4)年に幹部用社宅である山田社宅が建設された。
星越駅
山田社宅 新居浜選鉱場
下部鉄道跡 星越トンネル
1888(明治21)年、山根地区の生子山(しょうじやま)山麓に山根精錬所が竣工した。この精錬所は、湿式収銅法により鉱石を焼いたときにでる亜硫酸ガスから硫酸を回収、焼鉱は水に溶かして銅を採取、廃液から硫酸銅・硫酸鉄を回収、最後に残った鉱滓から銑鉄を回収するというものだった。しかし、製鉄・化学事業はうまくいかず、1894(明治27)年閉鎖された。現在は煙突を残すのみである。
また、山根地区には山根グラウンドがあり、この造成は住友社員の勤労奉仕によって1928(昭和3)年にできたものである。グラウンドの上方には大山積神社があり、当時使われていた汽車などが展示されている。その横には、1973(昭和48)年に閉鎖された別子銅山をしのんで別子銅山記念館が建てられている。
精錬所煙突 山根グラウンド
鉱山専用鉄道用蒸気機関車(ドイツ・クラウス社より1892年に購入)
上記の機関車の銘板
坑内索引6トントロリー電車
鉱山専用鉄道用電気機関車(ED-104)
1893(明治26)年、惣開と端出場を結ぶ別子銅山下部鉄道が開通し、物資輸送の中継点となった。その後、1910(明治43)年には第4通洞の開削が始まり、1915(大正4)年に開通した。坑道が海面下約1000mに達し、地圧や地熱の増大の危険から銅山は閉山を余儀なくされ、1973(昭和48)年に閉山となる。その後、1991(平成3)年に、端出場の産業遺産を生かしたテーマパークとしてマイントピア別子がオープンした。
1902(明治35)年に端出場火力発電所が、1912(明治45)年には端出場水力発電所が竣工した。端出場水力発電所は、水路式発電所で、有効落差は560.61m、横軸ペルトン水車を回し、3000kWを発電した。
マイントピア別子 中尾トンネル(1893)
四通橋(1919) 第四通洞(延長4596m)
第四通洞内 レンガ水路
芦谷川鉄橋(1893)
観光坑道 坑道内部
水力発電所
貯鉱庫跡