神子畑鋳鉄橋と神子畑選鉱場跡 |
JR播但線「新井駅」で下車、駅前には数台のタクシーがあった。タクシーで神子畑まで乗車、約20分、運賃3420円の行程であった。ここからタクシーで来た道を歩いて戻る。
下車したところには神子畑選鉱場跡があり、選鉱場跡やインクライン跡、生野鉱山から移築された「ムーセ旧居」などがある。選鉱場跡は広場になっており、次のような説明のタイルがある。
神子畑では明治11年に優良な銀鉱脈が発見され、加盛山(神子畑鉱山)と呼ばれ稼働していたが、出鉱量の低下により大正6年に閉山した。神子畑選鉱場は明延鉱山(養父市)で採掘し破砕された錫等の鉱石の選鉱場として大正8年に当地に建設された。 「明延鉱業所史」によれば、昭和に入ってから数度の拡張工事を経て、最盛期には「東洋一」と謳われた選鉱施設となった。 建屋は木と鉄骨で造られ、屋根はトタン張り、擁壁は石積みやコンクリート造りで、幅110m、斜距離165m、高低差約75mで、内部の階層は22段を数えた。 また神子畑選鉱場の特色であった錫の「比重選鉱技術」は、海外からも視察団が訪れるほど国際的にも高井評価を得た技術であったが、昭和62年の明延鉱山の閉山により、その役目を終え操業を停止した。生産関連施設は、選鉱に利用していた機械類が売却され、平成16年には建屋や変電所、鉄工所、事務所などほとんどが取り壊された。現在は基礎コンクリートと階段、濃縮施設の屋外シックナーなどがわずかに残るのみである。 |
濃縮施設跡
選鉱場跡 インクライン跡
ムーセ旧居の説明板は以下の通り。
県指定文化財 旧神子畑鉱山事務舎(元生野鉱山外人宿舎) 指定年月日 平成4年3月24日 住所 朝来市朝来町佐嚢1826番地の1 所有者・管理者 朝来市 構造・形式 木造平屋建、方形造桟瓦葺、玄関ポーチ付 桁行 10.30m 梁間 10.30m 軒高 4.30m 棟高 7.47m 旧神子畑鉱山事務舎は、当初、官営生野鉱山の外国人宿舎として明治5年(1972)に建てられた。その後、神子畑鉱山の開発にともない、明治20年(1887)にこの地に移築され、閉山までは神子畑鉱山事務舎や診療所として使用されてきた。今回の修復工事は移築時の事務舎の姿に復されているが、外観や間取りの特徴などは生野時代の官舎の姿を引き継いでいると考えられる。背後に建つ附属屋は生野時代の写真を基に新たに整備された。 建物は明治初頭に建てられたコロニアル・スタイルと呼ばれる特徴をよく示している。正方形の平面の中央に廊下をとり、両側に2室ずつ配した簡潔な間取りや、四面にベランダを巡らせた開放的な外観もこの時代の特徴といえるものである。 一方、構法は伝統的な桟瓦葺の方形屋根に和小屋、軸組を用いている。内部の暖炉は発見された炉石を元に3箇所が復され、暖炉飾りは明治後半の神戸の異人館の形状を参考にして整備された。漆喰塗りの壁や和紙貼り天井、鎧戸付きの窓など、明治初頭の洋風技法をよく示している。 この建物の建設にはフランス人のレスカス(Jules Lescasse 1841?-1901)と加藤正矩という日本人が関与したことが記録として残されている。レスカスは明治村に移築されている西郷従道邸(明治13年/国重要文化財)の設計者として知られる土木・建築技師である。この建物は外国人によって外国人の居住のために設計されたものであるが、技術や素材は日本の木造建築の伝統をそのまま継承しているといえる。明治のごく初期に建てられ、その全体像がうかがえる洋風建築は全国的にみてもわずかしか残存していないので重要である。 なお、生野時代に鉱山技師のムーセが住んでいたのではないかということからムーセ旧居という呼び名で親しまれているが、資料からは定かではない。 平成16年3月 兵庫県教育委員会 |
ムーセ旧居
神子畑選鉱場から神子畑鋳鉄橋までは神子畑川に沿って歩くことおよそ25分。神子畑鋳鉄橋の説明文は以下の通り。
国指定文化財(建造物) 昭和52年6月27日指定 神子畑鋳鉄橋(明治時代) ●所 在 地 朝来郡朝来町佐嚢字水田1637-7から1645-3まで ●所管・所有 明治政府工部省 鉱山寮生野鉱山分局 明治18年11月まで 同 農商務省鉱山寮生野鉱山分局 明治18年12月まで 同 大蔵省 鉱山寮生野鉱山分局 明治22年11月まで 同 宮内省 御料局生野支庁 明治29年10月まで 三菱合資会社 明治29年11月から 三菱金属株式会社継承 昭和51年 6月まで 明延鉱山株式会社 平成11年12月まで 細倉鉱山株式会社 平成12年 1月から現在まで ●管理団体 朝来町 明治11年神子畑鉱山が再発見され、明治14年本格開坑以後、その鉱石運搬のために道路が必要となり、神子畑−生野間16.2km、幅員3.6km(3.6mの間違い)の馬車道(鉱山道路)が建設され、多くの橋が架けられた。 この工事は明治16年4月に始まり、明治18年3月までの2年間にわたって総工事費4万円をかけた大工事であったとされる。この馬車道が神子畑川を横切るときに架けられたのが神子畑鋳鉄橋である。 また、工事すべての設計・施工はともに日本人となっているが、生野鉱山開発にあたったフランス人技師団の技術指導の結果によるところが大きい。 神子畑−生野間の馬車道には、当時それぞれ構造の異なる5つの橋が架けられていたが、現存するものは、神子畑鋳鉄橋(橋長16mの一連アーチ橋)と羽渕鋳鉄橋(橋長18mの二連アーチ橋)の二つのみであり、ともに美しい洋式橋の姿を残している。 神子畑鋳鉄橋は日本に現存する鉄橋としては三番目に古いとされるが、一番目の大阪の心斎橋(明治6年)は錬鉄製であり、二番目の東京の弾正橋(明治11年)は錬鋳混用である。したがって本鋳鉄橋は全鋳鉄製の橋としては日本最古の橋となる。 特に、木橋、石橋から煉瓦へ、さらに鋳鉄、錬鉄、鋼鉄へと発展してきた材質からみた日本橋梁史の流れの中で神子畑鋳鉄橋は、その過渡期的なものであり鋳鉄橋発展史上最終段階のものとしての意味からも歴史的に価値があり、力学的な美しさを持った大変貴重な文化財としての橋である。 昭和54年に国県の補助を受けての調査工事、昭和57年9月から昭和58年7月31日まで保存のための解体復元の大修理が行われた。 ●竣工 明治18年3月 ●構造 鋳鉄製一連アーチ橋 アーチ半径 60.0m 幅員 3.727m 橋長 上流側 15.969m 橋高 3.810m 下流側 15.997m (水面より桁上端まで) |
神子畑鋳鉄橋
村松貞次郎氏の碑文
新井駅より国道312号線を南下すると、およそ35分ほどで田路川と円山川の合流点に出る。ここに羽渕鋳鉄橋はある。神子畑鋳鉄橋のところにあった説明文の中に羽渕鋳鉄橋の説明もあったので以下に掲載しておく。
兵庫県重要有形文化財(建造物) 昭和51年3月23日指定 羽渕鋳鉄橋 1.所在地 朝来郡朝来町羽渕字柳16-1(移築後) 〃 字田中212-4から字中筋137-1まで(移築前) 2.建設年代 明治18年竣工 3.構造 鋳鉄製二連アーチ橋 4.規模 橋長 18.150m 幅員 3.175m 5.所有・管理 朝来町 |
明延鉱山の鉱石は神子畑選鉱場で破砕された後、トロッコに積んで播但線の新井駅まで運ばれた。このトロッコ軌道である神新軌道の跡が残る。
旧山神橋の橋脚
トンネル跡