宮原坑跡と三池集治監跡の塀 |
■宮原坑跡
万田坑から宮原坑へ向かう。県道787号を経て、県道788号を北上。諏訪川にかかる橋を渡ると第二竪坑の櫓が見えてくる。橋を渡り終えてすぐ右の道を入り、しばらく進む。丘をあがると公園があり、これを右にみて住宅街を進むと、突然野原が現れる。宮原坑跡の敷地だ。
説明の掲示板には次のように書かれている。
国指定重要文化財(建造物) 三井石炭鉱業株式会社 三池炭鉱宮原坑施設 大牟田市宮原町1丁目86番地3 平成10年5月1日指定 国指定史跡 三井三池炭坑跡 宮原坑跡 万田坑跡 大牟田市宮原町1丁目86番地3ほか 平成12年1月19日指定 三池炭鉱は、明治6(1873)年に官営となり、大浦坑・七浦坑・宮浦坑・勝立坑等主力坑として施設の近代化が進められた。明治22(1889)年には三井組に払い下げられ、団琢磨を指導者として経営の拡大が図られた。明治後期に宮原坑、万田坑、大正期には四山坑が開坑され、わが国最大の炭鉱に発展した。 この宮原坑は、明治31(1898)年に第一立坑が、明治34(1901)年に第二立坑が完成した。第一立坑は揚炭・入気・排水が主であり、第二立坑は人員昇降を主とし、排気・排水・揚炭を兼ねた。三池炭鉱の最大の課題は排水であったが、両立坑とも当時世界最大のデビーポンプ2台を備え、排水難を解消、深部採炭への展開を可能とした。以後、宮原坑は主力坑として、明治・大正期を通じて年間40〜50万トンの出炭を維持した。当時宮原坑は、三池集治監に収容されていた囚人が採炭に従事し、彼らから「修羅坑」と呼ばれ恐れられた。しかし昭和初期の不況の中で、昭和6(1931)年5月1日、七浦坑とともに閉坑した。 現在、第一立坑はすでに消滅しているが、この第二立坑には鋼鉄製櫓、捲上機室などが現在も残り、その周囲約4800uが史跡となっている。捲上機室はイギリス積みレンガ造の切妻平屋で、屋根は現状で波形スレート葺き。内部には捲上機がウインチ、大型のモーターなどが据わっている。 平成16年3月 大牟田市教育委員会 |
捲上機室
第二竪坑櫓 第二竪坑
■三池集治監跡の塀
三池炭鉱では、切羽(採掘の最先端)の労働力として、官営当初から囚人を使役していた。1883(明治16)年には、重罪人を切羽で採炭させることを目的として、三池集治監を建設し、使役させた。集治監の跡は、現在、県立三池工業高等学校となっており、当時のレンガ塀が残されている。