飾磨樋門(大樋) |
JR播但線「砥堀(とほり)駅」で下車し、15分ほど国道312号線に沿って南下する。山陽自動車道の高架下近くにある橋の先を見ると飾磨樋門がある。市川の河畔に沿って行けば、樋門の真上に出る。近くには工事の中心人物であった中安繁治氏の顕彰碑や説明文がある。説明文には次のように書かれている。
飾磨樋門(大樋) 通称は(大樋)。市川の分流船場川への水の取り入れ口。船場川の水は飾磨までの間の600町歩の田の揚水だけでなく、姫路城の濠への給水、飾磨からの高瀬舟の運航、「姫山しぼり」などの染織産業にも利用された。 姫路城主酒井家では一万石をあててその管理にあたらせたといわれる。寛延2年(1749)7月、大樋が切れて姫路城下は大洪水になった事もあるように、各城主は重視していた。 今の樋門は明治36年のもの、花こう岩とレンガとで構築している。門扉は昭和42年3月、豊国式ピンジャッキ捲上機に改修。井堰は昭和37年コンクリートに改修したが、その後しばしば被害を受け、今のものは同43年復旧したもの。 増位中学校区夢プラン実行委員会 |
中安繁治氏の顕彰碑の前に碑の読み下し文がある。内容は以下の通り。
水利は村民の命であり、いとなみ続けられていくものである。 飾磨郡保城村に大樋堰という水門がある。市川にあって船場川に注ぐ水の流れは延々と南下して飾磨湾に入ることから、飾磨堰ともいう。流れに沿って二十八の村があり、灌漑面積は六百十余町歩、その租入は一万四千五百七十三石であり、村民は喜びと悲しみをともにしている。 姫路藩は、水門に関して毎年一万石を充てたが、明治維新になって制度は一変し、水門の維持管理は村民の手によることとなった。このため、時には水門操作ができず水不足を患うこともあった。 村の名家である中安繁治翁の十代前の與太夫は、天和三年(1683年)に村長になる。その子孫は世襲して明治初年に繁治翁もその職を継ぎ、治水に最も心をくばっていた。歳月が過ぎ、明治24年に飾磨堰水利組合土功会をおこすことになり、翁は委員長に選ばれた。そして明治29年のはじめに堰堤を改造して灌漑の便をはかった。更に明治33年には水制工として突堤を五基設けて市川の水勢を弱め、水門は護られるようになった。このようにして事業はようやく緒についた。 明治35年、大雨は激しくなり、濁流が溢れ、水門が破壊され、田園は街を被った。翁は、いまだ十分でないことを嘆き、有識者にひろく相談し大きな計画をたてる。 すなわち玉川上水には及ばないが、多大な費用を投じて閘門三条を起工する。レンガと花崗岩を使用し、門扉の開閉機を築造した。そのため以前は作業員を数十人要したものが今は一人ですむようになった。明治36年、昔の十倍も強固なものが竣工した。ここに治水の仕事が完了した。 二十五年にわたって組合に存任した翁に対して、村民はその功績がすぐれているとして大正五年にみんなにはかって水門の上に碑を建てた。 ここにそのあらましを記す。 大正五年三月 正五位勲三等 肥塚 龍 書 |
船場川側(西側)
市川側(東側) 顕彰碑