旗後灯台と旗後砲台跡   update:2017/03/18

 旗後灯台は、1883(光緒9)年税関が建造し、元々は四角形の煉瓦塔で、6等の単芯光塔を装備した。1916(民国5)年日本人の手で改築され、1918(民国7)年完成した。同年3月10日に点灯された。灯台は八角形の白い煉瓦塔で、上に3等電灯を装備、毎20秒ごとに赤と白の光を出した。第1次対戦第2次対戦時も損害を受けず、変わらず発光を続けた。1948(民国37)年、赤白の色変え時間を17秒に改めた。1962(民国51)年にはA-B級のラジオビーコンを増設した。
・位置:高雄港旗後山山頂(北緯22度37分01秒、東経120度15分25秒)
・灯台の高さ:15.2m
・灯台部の高さ:58/2m(最高潮位と灯台中心との間)
・公称到達距離:25.2海里
 1985(民国74)年11月27日に直轄市定古蹟に指定された。
(現地の説明板を筆者が訳出)

フェリーで旗津へわたる

旗後灯台

 

展示場 日時計

構内に残る砲台の跡(?)

構内に残る防空壕跡(?)


 清の末期、高雄港の安全を守るために、打狗山の大坪頂、哨船頭、旗後の3ヶ所に砲台が造られた。そのうち最も高い場所に造られたのは「大坪頂砲台」で、現在は埋没している。次に高い所に造られたのが「旗後砲台」、一番低い所が「雄鎮北門砲台」であった。旗後砲台の記録が最初に見られるのは1720年(康煕59年)の『鳳山縣志』で、「旗後の季節:大きな砲台が一つ、狼煙台が一つ、望楼が一つ」とある。
 1874年(同治13年)の牡丹社事件の後、清朝が派遣した船政大臣の沈葆禎が訪台し、淮軍の統領唐定奎と副将の王福禄に海防の仕事を依頼した。彼らは英国人J.W.Harwoodに旗後砲台の設計を依頼し、中華と西洋が混じった形式の砲台建設が、1875年(光緒元年)に始まり、翌年に完工した。
 旗後砲台の基礎は、底面は大きく上部は楕円型をしており、3つの区域に分かれている。北地区は兵舎、中地区は指揮区、南地区は弾薬庫である。その上に英国製6.5トンアームストロング砲4門が設置された。旗後砲台の正門は中国式の八字牆で、両側には縁起文字「囍」がある。
 1895年(光緒21年)10月15日6時55分、日本の戦艦「吉野」「秋津洲」等が旗後を砲撃し、砲台の門額を破壊した。砲撃前、指揮官の劉成良は早朝4時に安平にあた。砲台には指揮官がおらず、わずか5発発射しただけに終わった。午後2時には日本軍は上陸を開始し、無人の旗後砲台を占領した。日本占領末期、大砲は破壊され、溶かされ、旗後砲台は廃墟となった。
 国民政府が台湾を接収した後、国軍によって砲台と灯台の間に新しい要塞が築かれた。1985年(民国74年)、内政部は旗後砲台を二級古蹟に指定した。1991年(民国80年)、高雄市政府は修復を進め、3年後の1995年1月1日から見学できるようにした。
(現地の説明板を筆者が訳出)
 
旗後砲台跡





「威震天南」額

付近には日本軍の施設跡と思われる遺構が残る

 

【おまけ】
旗後天后宮(1673年創建で高雄市最古の寺)

★旗後灯台
■所在地:中華民国高雄市旗津区旗下巷34号
■交通:高雄MRT橘線「西子湾」駅より徒歩5分で鼓山フェリー乗り場、下船後、徒歩15分
■参観:9:00~16:00(月曜休日)
■費用:無料

★旗後砲台
■所在地:中華民国高雄市旗津区旗後山頂
■交通:同上
■自由に見学できる

■参考:http://heritage.khcc.gov.tw/

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