旧小野田セメント徳利窯 |
JR小野田線「南小野田駅」を下車、駅舎を出て右に歩くとすぐに踏切に至る。踏切をわたると目の前が「太平洋セメント」の工場入口である。入口横に徳利窯への案内碑が建つ。案内にしたがって線路にそって歩くと、5分程で徳利窯に到着する。
案内碑 工場建物
徳利窯は、1881(明治14)年、小野田セメント(株)創業時につくられた4基のうちの1つで、1883(明治16)年に建造され、のち明治30年代に改造大型化されたものである。1894(明治27)年には、最大12基の窯が稼働していた。
徳利窯
窯の使用の様子については、『小野田セメント百年史』に詳しいので、そのまま引用する。
焼成には竪窯、俗に「徳利窯」を用いた。当時、ヨーロッパでも竪窯がセメント焼成に一般的に用いられており、Bottle Kiln と呼ばれていたから、徳利窯という名称も形状から由来したとはいえ、けっして奇異なものではなかった。創業当時の徳利窯の形状と寸法は第1-2図(略)の通りであるが、火袋の内面には耐火煉瓦(当時は白煉瓦と呼ばれていた)を張りつけた煉瓦造りで、1基の窯に12万5000個の煉瓦を要したといわれている。窯の下部には鉄製の水平の火床があり、窯は上部にいくにしたがって細く、煙突の作用をするようにしてあった。徳利窯に原料および燃料を装填する方法は、火床の上に焚付用の松の枯枝を敷き、その上に比較的多量の中塊の石炭を載せ、この上に前記の石灰・泥土混合の原料を一定の厚さで積み、さらにその上に石炭を一定の厚さで積んだ。このように燃料と原料とを交互に積み重ねること12〜13段で、窯の最大径の個所に達する。石炭と原料を装填する厚さは、窯の内壁の煉瓦の積み数によって目測し、原料は5枚の厚さ、石炭は2枚の厚さを標準とし、上層にいくにしたがって石炭の厚みを減じ、最後には煉瓦1枚の厚さとした。後にはこれを改めて、石炭・原料とも重量によって定め、一定量を容れる鉄製の罐で量目を測った。 装填が終わったところで点火し焼成過程に入るが、焼塊焼出しまでに平均7昼夜を要した。なお、焼き終る前に窯内上面に石炭および生焼の原料をかけ、余熱を利用して幾分か焼成した。焼成が終わると下部の火床を外し、焼塊を取出した。徳利窯は焼成が不均斉であったため、窯から取出した焼塊を選別しなければならなかった。 |
窯の大きさ
焼成部高さ:6.7m 煙突部高さ:11.1m 総高さ:17.8m
焼成部内径:4.28m 煙突頂部内径:1.12m
製造能力
約7昼夜かけ、約10トンのクリンカ(セメントの半製品)を製造
文化財指定
1969(昭和44)年2月山口県指定有形文化財(史跡)「小野田セメント徳利窯」
2004(平成16)年12月国指定重要文化財(建造物)「旧小野田セメント製造株式会社竪窯」
焚口 窯下部
窯の横にあるスチームエンジン