柳原水閘 |
北総線の「矢切駅」から北に向かい、栗山浄水場の脇を通って江戸川に向かう。江戸川の土手の下、柳原排水機場のところに柳原水閘はあった。すでに使われなくなった4連の煉瓦造りの樋門を中心に公園が整備されている。
北西側
北西側
南東側
近代化産業遺産の碑
北西側に建つ柳原水閘の歴史という説明板には次のようにある。
松戸市指定文化財 柳原水閘 坂川治水事業の歴史は古く、1723年(享保8年)の河道の一部改修から始まります。数回の河道延長工事を行い、自然流下が可能となったのは、1836年(天保7年)に最下流である現在の場所に旧式樋門が造られてからのことです。これにより、坂川流域の水害は著しく軽減されました。その後、1904年(明治37年)に「坂川普通水利組合」によって煉瓦造樋門として造り替えられ、現在の形となりました。 樋門(水閘)は江戸時代〜明治時代にかけては、木造及び石造が主流でしたが、明治時代中期から煉瓦造りが加わり、その後、鉄筋コンクリート構造が主流となります。煉瓦造り樋門の建築年代は明治時代中期〜大正時代中期の約30年間程度と非常に短く、柳原水閘のような四連アーチの大規模なものは現存する他の樋門でもあまり例がない大変貴重なものです。また、明治時代の煉瓦築造技術をつたえる資料でもあり、治水事業の歴史を語るうえで欠かすことのできない治水施設です。 なお、設計者は井上二郎であることが、銘板に記されています。井上二郎は1873年(明治6年)茨城県北相馬郡相馬町藤代(現藤代町)に生まれ、1900年(明治33年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、1907年(明治40年)鬼怒川水力電気事業や京浜運河工事の設計を手がけました。また、手賀沼開墾の先導者としても知られています。 時代 明治37年4月 竣工 構造 四連アーチ 規格 河川横断方向 17m 河川縦断方向 13m 材質 アーチ部 煉瓦造(野積み) 石造(切り石積み) 脚部 石造(一部コンクリート補修) 指定年月日 平成7年4月13日指定 松戸市 |