<HOME>  update:2023/06/14

1.はじめに

 以前に「戦前の台湾のラジオ放送」を紹介したが、この中で台北放送局演奏所と台中放送局・台南放送局の局舎が現存していることにふれた。また、現在は放送博物館(正式名称は「国家広播文物館」)になっている台北放送局民雄送信所の訪問記も紹介した。その後、台湾にはこれ以外にも日本統治下に開設された放送局の局舎が残っていることを知り、以下に保存状況も含めて紹介したい。コロナ禍で海外へ行くことなど夢物語となってしまい、訪問は不可能であるため写真等はウェブページからの引用でお許し願いたい。平常の生活に戻ったらぜひとも訪問してみたいものだ。

 局舎の保存状況については、主に台湾の文化部文化資産局のウェブページ「国家文化資産網」に拠った。また、地図はGoogle Mapをもとに筆者が作成した。


2.台北放送局板橋送信所

図1 当時の板橋送信所

 台北放送局は、昭和天皇即位の御大典記念事業として1930(昭和5)年12月に開設された。送信所は台北市郊外の台北州海山郡板橋街(旧住所表記)に新設された。周波数670kc、出力10kWのドイツ・テレフンケン社製真空管送信機が設置された。アンテナは75m高の自立式鉄塔2基の間にT型アンテナを架設したものである。送信周波数は、1936(昭和11)年7月に750kcに変更されている。変更の理由は不明。

 現地住民のラジオ放送聴取者の増加に伴い、現地住民向け第2放送が計画され、1942(昭和17)年10月から実施された。日本人向けの第1放送は板橋送信所が担当し、現地住民向けの第2放送は民雄送信所と板橋送信所の増設機が担当した。板橋送信所の第2放送には、日本電気製の670kc、10kWの送信機が使用された。

図2 板橋放送所(古蹟公園)

 現在の板橋送信所は、板橋放送所と称し、古蹟公園として7:00~21:00まで開放されている。送信所の建物を公園から見ることができる。古蹟指定は2015年8月5日付:新北府文資字第1041407952号となっている。住所は新北市板橋区民族路130巷67号である。交通は、
捷運(*)「板橋駅」から南へ徒歩約10分のところ。

図3 板橋放送所の所在地
(*)捷運(jieyun)は新交通システムMRTの台湾での名称。

3.台北放送局淡水受信所と国際電話(株)
観音受信所
 台湾での放送番組は、日本国内の放送の中継を主体としていたため、受信所で日本国内の中波放送を受信しこれを放送していたが、空電のため状況は極めて悪かった。その後、短波を使った受信に替え状況が改善された。

 淡水受信所は、1928(昭和3)年10月に開設した台北無線電信局淡水受信所構内に設置された。所在地は台北州淡水郡淡水街字砂崙子(旧住所表記)である。高一中三スーパー受信機を2台に、1kmのウェーブアンテナと
ベリニ・トシ式アンテナ(*1)が設置された。台北の演奏所とは30kmの距離を独立の2回線を設置して結んだ。

図4 当時の観音受信所

 その後、1934(昭和9)年3月に竣工した国際電話(株)の観音受信所を使用するようになり、1935(昭和10)年に淡水受信所は閉鎖された。

図5 観音受信所跡

 観音受信所は、日台間の無線電話通信のための施設として、1934(昭和9)年に中壢送信所とともに開設された。所在地は、新竹州中壢郡観音庄倫坪(旧住所表記)である。放送受信に使用された受信機は、日本無線電信電話(株)製造のスーパーへテロダイン受信機である。アンテナは、59m高の木柱6基の間に反射器付水平アンテナを架設、東京からの11725(11705)kcと15235(10190)kcを受信した。

図6 観音受信所跡の所在地

 淡水受信所は、文化資産局の登録には含まれていない。GoogleMapのStreetViewで探すと、新北市淡水区中正路2段55-1号に中央広播電台淡水分台がある。おそらくここに淡水受信所があったと思われる。塀の中までは見ることができなかったので、当時の建物が残っているかどうかは不明である
(*2)
 現在、観音受信所は現存していない。遺構が「国際電話株式会社観音倫坪受信所設施群」として2018年5月に文化資産局に登録されている。府文資字第10701217281號。遺構は、桃園市觀音区倫坪里福山路「倫坪文化地景園区」内にある。

図7 淡水受信所と思われる建物の門

図8 淡水受信所の所在地

(*1)ベリニ・トシ式アンテナ
イタリア人Bellini Tosiの発明による方向探知アンテナ。図のように三角アンテナを直角に配置し、それぞれにはコイルL1、L2が接続されている。L1、L2はL3コイルと結合され、L3コイルとの結合が密になるアンテナがアクティブとなる。アンテナの向きを動かさなくても指向性を変化させることが可能なアンテナである。[『日本無線史』第2巻、電波監理委員会、1951.2.、P217~218]

図9 アンテナの説明図

図10 戦時中に使われていたラバウルのベリニ・トシ・アンテナ

(*2)現在の淡水受信所について、H氏よりメールをいただいた。この建物は戦後に建造されたもので、淡水受信所跡は現在公園になっているとのことであった。参考に、当時の地図を添付しておく。出典は『日本無線史』第12巻、P49(2023.6.14追記)



4.国際電話(株)中壢送信所


 中壢送信所は、国際電話(株)の施設として、1934(昭和9)年2月に竣工した。所在地は、新竹州中壢郡中壢街後寮(旧住所表記)であった。この施設を使って、日本国内へ台湾の放送の中継を行った。また、1937(昭和12)年7月の満州事変の勃発を機に海外放送を実施することとなり、同年7月16日から中?送信所の9695kc、10kW送信機を使用して行われた。内容は15~20分のニュースで、安南語、馬来語、日本語、広東語、英語、北京語などが使われた。

図11 当時の中壢送信所

図12 現在の中壢送信所

 現在の中壢送信所は廃屋として残っており、2017年6月に文化資産として登録されている。府文資字第10601307001号である。所在地は、桃園市中壢区中山東路三段414巷18号である。写真で見たところ、倒壊までそう長くはなさそうに思える。

図13 中壢送信所の所在地

5.嘉義放送局

 嘉義放送局は、台南放送局の中継局として計画され、1942(昭和17)年8月、嘉義市栄町(旧住所表記)に開局した。コールサインJFDK、沖電気製の1070kc、500W送信機を使用、アンテナは50m高の木柱間にT型アンテナを架設した。

図14 嘉義放送局局舎

 嘉義放送局については、文化資産登録がない。嘉義市内をGoogleMapで調べたところ、中国広播公司嘉義広播電台がヒットした。おそらくこれが元の嘉義放送局ではないかと思われる。所在地は、嘉義市東区呉鳳南路121号である。

図15 嘉義放送局の所在地

6.花蓮港放送局


 花蓮港放送局については、『ラジオ年鑑』、『日本無線史』ともに記述がない。1944(昭和19)年5月に台北放送局の中継局として放送を開始した。『続日本無線史』第1部には、送信機に台湾通信工業(株)製の100W送信機が使用されたとある。ある
ウェブページ(*)には、コールサインJFEK、周波数1020kHzで運用していたとあるが、出典の記載がない。

図16 花蓮放送局局舎

 現在の花蓮港放送局は、局舎が残っており、2015年に文化資産に登録されている。府文資字第1040230030A号がそれである。所在地は花蓮市松園街96号である。この局舎の写真は、嘉義放送局の局舎とよく似ており、前項での推察は大きくはずれていることはないように思われる。

図17 花蓮放送局の所在地

(*)http://okalab.s601.xrea.com/thk.html


7.接収と再建


図18 接収時の行政文書表紙

 台湾に設置された5つの放送局は、日本の敗戦後、中華民国に接収され、中華民国の放送局として再建された。接収は1945年11月からはじまり、放送局を管轄していた台湾放送協会については、中央広播事業管理処が担当した。11月10日には台北放送局の接収が終了し、台北放送局は「台湾広播電台(コールサインXUPA)」と改称し、毎日7時間半の放送を行ったとされる(*)。その後台中放送局(11月15日接収、コールサインXUDC)、民雄送信所(11月17日接収)、嘉義放送局(11月18日、コールサインXUDG)、台南放送局(11月19日、コールサインXUDB)、花蓮港放送局(11月28日、コールサインXUDH)と、5局の接収は終了した。すべての局が破壊されることなく、中国側に引き渡されたようである。この当時は国民党が中国政府を代表していたため、新規のコールサインは中国に割り当てられている「X」を使用しているが、政変に敗れ国民党政府が台湾に移った1949年6月以降は、これらの局のコールサインは「BED」に変更された(改変の時期は不明)。台北放送局はBED34、台南放送局はBED47、台中放送局はBED58、嘉義放送局はBED63、花蓮港放送局はBED27となった。

8.おわりに

 日本植民地期の台湾の放送局の施設がこれだけ保存されているのは、日本の敗戦時に施設・設備をそのままの状態で明け渡していることが大きい。他所では施設・設備を破壊したり、あるいは朝鮮の清津放送局のように自爆という悲惨な結果をもたらしたのとは対照的である。また、台湾政府の文化財に対する姿勢が、たとえ植民地時代のものであっても文化的価値があるものは積極的に保存するという点も大きい。それは、高度経済成長期から今日までの間、容赦なく文化的価値の高い建物や設備を破壊・廃棄してきた日本の姿勢とは対極にあるといえよう。
 このコロナ禍のなかではなかなかままならないが、台湾へ行く機会があれば訪問してみると、またひと味違った台湾観光になるだろう。

【参考】
・『日本無線史』第12巻、電波監理委員会、1951.6
・『ラヂオ年鑑』昭和6年~昭和18年版、日本放送協会
・台湾文化部文化資産局「国家文化資産網」(https://nchdb.boch.gov.tw/)
・林平「戦後初年台湾広播事業之接収與重建(1945-1947)--以台湾広播電台為中心」『台湾学研究』第8期、2009.12

【図の出典】
図1:『ラヂオ年鑑』昭和7年版
図4・11:『日本無線史』第12巻、P81・p87
図9:"Bellini-Tosi direction finder"Wikipedia(英語版)
図10:『日本無線史』第2巻、P217
図18:台湾行政長官公署資料「接収電台」https://onlinearchives.th.gov.tw/index.php?act=Display/image/857806yjwEjDN#e1u


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