京都の近代建築-上京区
 update: 2021.2.4
 

■京都府庁旧本館(NO.1)
 京都府庁旧本館は、1904(明治37)年12月20日に竣工、設計は京都府技師の松室重光を中心に行われた。
 ルネサンス様式の建物は、煉瓦造一部石造、地上2階建で、知事室、貴賓室、議場などで構成される。2004(平成16)年12月に国の重要文化財に指定される。


 正面

議場 中庭より

 

 (2006.11撮影)

●所在地:京都市上京区下立売通新町西入薮ノ内町
●連絡:京都府出納管理局財産管理課 075-414-4044 zaisan@mail.oref.kyoto.jp
●その他:パンフレットあり、春と秋に一般公開あり(日程はHPで確認の事)
●備考:この建物に関しては<当HP産業遺産>にも記載あり


■京都府警察本部(NO.2)
 京都府警察本部は、1929(昭和4)年の竣工で、設計は恐怖営繕課である。現在は新町通に面した東側が玄関となっているが、府庁の敷地内にある西側の入口が当時の様子を見せてくれる。

西側入口

東側入口

●所在地:京都市上京区下立売通新町上ル薮ノ内町


■平安女学院明治館・昭和館(NO.3)
 平安女学院には、1894(明治27)年に竣工した煉瓦造2階建の明治館と1929年(昭和4)年に竣工した鉄筋コンクリート造2階建の昭和館がある。明治館の設計はA.N.ハンセル、昭和館の設計はバーガミニーである。明治館は校舎に遮られ見えないが、烏丸通から上部をかすかに望むことができる。昭和館は下立売通に面している。

烏丸通から見た明治館

昭和館

●所在地:京都市上京区下立売通室町東入ル五町目町


■日本聖公会聖アグネス教会聖堂(NO.4)
 アグネス教会聖堂は、日本聖公会京都地方部の聖堂として1898(明治31)年に竣工、聖三一大聖堂と命名された。設計は、アメリカ人建築家のジェームズ・マクドナルド・ガーディナーによる。建物はゴシック様式の煉瓦造、左右非対称の礼拝堂と三層の鐘楼を特徴とする。現在は、京都教区の主聖堂、地域教会、平安女学院の礼拝堂という役割を果たしている。設置されている説明板には以下のように記されている。
日本聖公会 聖アグネス教会聖堂
 日本聖公会聖アグネス教会聖堂は、大阪の照暗女学校が明治28年(1895)に京都へ移り平安女学院と改称されたとき、その礼拝堂として、アメリカ人J.M.ガーディナーの設計により、明治31年に建築されたものである。この建物はさらに、日本聖公会京都教区の大聖堂としての役割も果たし、聖三一大聖堂とも呼ばれていた。現在は、京都教区の大聖堂と聖アグネス教会の聖堂を兼ねている。
 建物は、三廊式バシリカ型平面で、南西隅に八角平面の洗礼室、北東隅に三層の鐘塔、南東隅に司祭室を設けている。意匠的には、外観はやや重厚であるのに対し、内部は柱や小屋組の部材が比較的細く簡素なものとなっている。
 この聖堂は、煉瓦造の教会堂としては古いほうに属し、ガーディナー設計の初期の教会堂作品としても貴重であり、昭和60年6月1日、京都市指定有形文化財に指定された。
京都市
 


 

●所在地:京都市上京区烏丸通下立売角
●連絡:075-432-3015
●その他:パンフレットあり、http://www.nskk.org/kyoto/stagnes/


■大丸ヴィラ(NO.5)
 この建物は、1932(昭和7)年に竣工した元大丸百貨店の社主の旧宅として建設された。設計はW.M.ヴォーリズ、木造2階建の建物である。

 (2008.1撮影)


■旧京都中央電話局上分局(スーパーFresco)(NO.6)
 旧京都中央電話局上分局は、1923(大正12)年に竣工した、鉄筋工クリート造・一部鉄骨造の3階建で、設計は逓信省の吉田鉄郎である。
 建物は、1959年まで電話局として使用されたが、その後、電電公社の宿泊施設、電気通信技術資料館を経て、民間に売却された。

 (2007.1撮影)

●所在地:京都市上京区中筋通丸太町下ル駒之町


■旧京都中央電話局西陣分局(西陣産業創造會舘)(NO.7)
 旧京都中央電話局西陣分局は、1921(大正10)年竣工した。建物は鉄筋工クリート造3階建で、正面の女性のレリーフや軒下のレリーフが特徴である。
 設置されている説明板には以下のように記載されている(一部読めず)。
 この建物は、大正10年、京都中央電話局西陣分局として建設されました。設計者の逓信省技師・岩元禄は、日本近代建築の黎明期、大正時代において、建築の芸術性をひたすら追い求め、わずか3点の作品を残したのみで夭逝した天才的な建築家であります。この西陣電話局は、彼の現存する唯一の建物でもあり、文化的・学術的に非常に高く評価されております。日本電信電話株式会社としても、このすばらしい建物を永く後世に伝えようと、この度改修工事を行い、保存・再生することといたしました。皆様方の電話局として末永く親しんでいただければ幸いであります。
昭和60年10月23日
日本電信電話株式会社
取締役 関西総支社長
齋伯 哲
旧建物概要 名称 京都中央電話局西陣分局
      規模 鉄筋コンクリート造 一部木造 3階建
      面積 延 1,178㎡(再生部分)
建物沿革  大正10年(1921) 建物竣工
      大正11年(1922) 業務開始
      昭和33年(1958) ダイヤル自動化に伴い手動交換業務廃止
      昭和56年(1981) 電子交換機導入に伴い一部模様替
      昭和59年(1984) 保存・再生のため改修工事着工
      昭和60年(1985) 同工事竣工
保存部分  軀体、壁面、軒裏レリーフ、裸婦像、ライオン像、3階柱廊

 

 (2006.9撮影)

 玄関と軒下のレリーフ

●所在地:京都市上京区油小路通中立売下ル甲斐守町
●備考:この建物については<当HP産業遺産>にも記述あり


■上京区役所庁舎(NO.8)
現存せず
 この建物は、1937(昭和12)年に竣工した鉄筋コンクリート造3階建の建物である。この建物は解体され、2014年に新庁舎が竣工した。

(2008.1撮影)

●所在地:京都市上京区今出川通室町西入堀出シ町


■同志社大学(NO.9~15)
 同志社大学のはじまりは、1875(明治8)年に開設した同志社英学校である。翌年に現在の地に校地を移し、各建物が建設されていく。

(1)同志社礼拝堂
 竣工は1886(明治19)年、煉瓦造平屋建、設計はD.C.グリーン


(2)同志社ハリス理化学館
 竣工は1890(明治23)年、煉瓦造2階建、設計はA.N.ハンセル
 

(3)同志社彰栄館
 竣工は1884(明治17)年、煉瓦造2階建、設計はD.C.グリーン
 説明板には以下のように記されている。
<彰栄館>
 1884(明治17)年竣工。面積275.86㎡(延567.86㎡)。同志社に残る最も古い建物であり、現存する煉瓦造りの建物としても京都市内で最古のもの。礼拝堂や有終館と同様に同志社を支援するアメリカン・ボード(会衆派教会系のミッション)から7,500ドルの寄付を得て、同志社教員(アメリカン・ボード宣教師)のグリーン(D.C.Greene)が設計した。施工は日本人棟梁の尾瀧菊太郎。外観はアメリカン・ゴシック調であるが、屋根は瓦葺き、内部の小屋組なども純和風の寄棟造りである。鐘と時計とは、1887年に同志社教員、デイヴィス(J.D.Davis)が据え付けた.1979年、時計機械一式と建物とがともに国の重要文化財に指定された。1979年から翌年にかけて、壁体の鉄骨補強工事を行った。この建物を始め今出川校地では5棟の煉瓦造りの建物が国の重要文化財に指定されている。
 

 

 (2007.2撮影)

(4)同志社クラーク記念館
 クラーク記念館は、アメリカのクラーク夫妻の寄付により建てられた煉瓦造2階建の建物である。8角形の塔屋を持つ。設計は、R.ゼール。
<クラーク記念館>
1893(明治26)年竣工。面積398.87㎡(延799.39㎡)。新島襄が死去した翌年に亡くなった息子(B.S.Clarke)を記念して、ニューヨーク州ブルックリン市(現ニューヨーク市)在住のクラーク夫妻が、同志社のために捧げた寄付金をもとに建てられた神学館。2階の北側が礼拝堂として使われた。1963年に現在の神学館が竣工するまで「クラーク神学館」と呼ばれ、神学教育の中心施設であった。亡くなったB.S.クラークを記念するタブレットには、The study of the Word of God was dear to him.とある。設計は東京の「館長集中計画」のためにお雇い建築師として日本に招聘されたドイツ人のゼール(R.Seel)で、来日前に手がけた西プロイセン衆議会議事堂(現ポーランド、グダニスク市)を模して重厚なドイツ・ネオ・ゴチック調に仕上げられている。特に天を突くようにそそり立つ尖塔は、同志社のシンボル的な存在となっている。施工は京都の棟梁、小嶋佐兵衛。1979年、設計図、仕様書をも含めて国の重要文化財に指定された。 

 

(5)同志社有終館
 この建物は、D.C.グリーンにより設計された煉瓦造2階建の建物である。竣工は1887(明治20)年。

 

(4)同志社啓明館
 同志社女子大のキャンパス内にある啓明館は、鉄筋コンクリート造4階建の建物である。設計はW.M.ヴォーリズである。建物は2代目の図書館として造られ、1915(大正4)年に書庫棟が、1920(大正9)年に本館が竣工した。

 (2007.8撮影)

(5)アーモスト館
 この建物は、1932(昭和7)年に竣工した鉄筋コンクリート造3階建の学生寮で、設計はW.M.ヴォーリズである。アーモストという名称は、新島襄の母校アメリカから派遣学生として来日したS.B.仁コルスの母親が夭折した息子の記念に寄付を申し入れたことによる。

(2007.8撮影)

●所在地:京都市上京区今出川通烏丸


■同志社女子大学栄光館(NO.16)
 栄光館は、1932(昭和7)年の竣工で、武田五一の設計による鉄筋コンクリート造2階建の建物である。

(2007.8撮影)

●所在地:京都市上京区今出川通烏丸東入玄武町


■新島襄旧邸(NO.17)
 この建物は、1878(明治11)年に竣工した、同志社を創立した新島襄の旧邸である。木造2階建。説明板には以下のように記されている。
京都市指定有形文化財 新島襄旧邸
 新島襄旧邸は、同志社の創立者新島襄の自邸として建設されたもので、1878(明治11)年に竣工したと伝える。また、設計は宣教医テーラーの助言のもとに新島自身が行ったといわれている。
 建物は木造の2階建で、北側に平屋部分が付属する。外観はコロニアルスタイルを基本としているが、細部装飾がほとんどなく、真壁の白い壁面に配された茶褐色の木部が単純明快な美しさを見せている。また、この建物はいわゆる洋風建築に属するものの、畳敷や箱階段などの伝統的手法も用いられている。日本人の設計により、日本人のために建てられた明治時代初期の洋風住宅として、さらに新島襄の住宅遺構として貴重である。
 同じ敷地内に建つ付属屋と門は旧邸と同時期のものであるが、これらは伝統的な様式で建てられており、旧邸と合わせて住宅の洋風化のあり方を示すものとして注目される。
 また、旧邸に残る家具57点はこの建物が住宅として使われていたときのもので、簡素な室内意匠とよく調和しており、なかでも国産の洋家具は明治時代初期における家具技術を示す資料としても価値が高い。
旧邸 昭和60年6月1日指定
附 付属屋・門 平成5年4月1日追加指定
家具57点 昭和61年6月2日追加指定
京都市
 

 

●所在地:京都市上京区寺町通丸太町上ル松蔭町
●備考:公開は3-7月、9-11月の水・土・日、10:00-16:00、https://archives.doshisha.ac.jp/old_mansion/old_mansion.html


■旧美芳堂(ミヨシ堂)(NO.18) 現存せず
 この建物は、1929(昭和4)年に竣工した鉄筋コンクリート造2階建の建物である。美芳堂は大正時代に現在の地に移り、道路拡幅時に表の部分が建て替えられた。2018年3月に建物は取り壊され、現在は時計がついた建物が再建されコンビニエンスストアとなっている。



●所在地:京都市上京区千本通今出川上ル上善寺町


■旧西陣織物館(京都市考古資料館)(NO.19)
 この建物は、大正天皇即位の記念事業として、西陣織物同業組合が西陣織の製品陳列を目的に1914(大正3)年に建設したものである。西陣織物館は1962(昭和37)年に西陣織の歴史的な資料の展示、修復、維持管理、貸出し等を目的に設立された団体で、現在は西陣織会館内に展示室を持つ。現在この建物を使用している京都市考古資料館は、1979(昭和54)年11月に設立されたもので、京都市内で発掘された埋蔵文化財を中心に展示を行っている。建物の設計は本野精吾、煉瓦造3階建の建物である。

(2019.12撮影)

●所在地:京都市上京区今出川大宮東入ル元伊佐町
●備考:京都市考古資料館 075-432-3245、http://www.kyoto-arc.or.jp/museum/
     9:00-17:00 月曜休館 入館無料


■鈴木医院(NO.20)
 この建物は、大正から昭和初期に建てられた木像2階建の建物で、現在耳鼻咽喉科の医院として使われている。

(2019.12撮影)

●所在地:京都市上京区堀川中立売西入ル役人町


■聚楽会館(NO.21 )
 この建物は、大正から昭和初期に建設され、1959(昭和34)年に移築されたもので、鉄筋コンクリート造2階建の建物である。建物を所有する聚楽教育会は、1925(大正14)年に聚楽地域の教育後援機関として活動することを目的に創立されたものである。同地にある石碑には以下のような記述がある。
聚楽会館
この聚楽会館は、区内の教育・文化の向上・福祉の増進と、区民の親睦を図る殿堂である。会館の土地380平方mは、昭和25年1月に創立された。聚楽講会が、同30年1月に聚楽教育会に寄贈、また建物は同24年10月、篤志家の寄付を受け、二十日講会協力のもとに改装を行い、同39年8月から、聚楽会館として発足したものである。」
昭和60年9月吉日 財団法人 聚楽教育会
 

(2019.12撮影)

●所在地:京都市上京区堀川中立売西入ル役人町


■旧西陣小学校(NO.22)
 西陣小学校は1869(明治2)年12月に上京第五番組小学校として創立された。1884(明治17)年西陣小学校と改称された。1995(平成7)年3月近隣の小学校との統合により閉校となる。現在残る校舎は、1934(昭和9)年9月21日の室戸台風で児童41名の死亡を含む多数の重軽傷者を出した惨事の後,1936(昭和11)年に建設された。

校門 教室棟

本館(2013.7撮影)

●所在地:京都市上京区堀川通上立売西入幸在町


■西川薬局(NO.23)
 この建物は、大正から昭和初期に建てられた建物である。

(2013.4撮影)

●所在地:京都市上京区河原町通荒神口上ル宮垣町


■喫茶静香(NO.24)
 この建物は、1919(大正8)年長屋住宅として建てられ、その後1937(昭和12)年に芸妓静香が「静香」という喫茶店を始め、翌年に内装の改修が行われた。木造2階建の建物である。

(2009.7撮影)

●所在地:京都市上京区今出川通千本西入南上善寺町


■京都府立医科大学旧附属図書館(NO.25)
 京都府立医科大学は、1872(明治5)年に青蓮院内に設置された両病院と医学校にはじまる。その後、同地に移転し、1881(明治14)年に京都府医学校となり、1921(大正10)年に京都府立医科大学となった。現在、旧附属図書館棟と旧臨床講義棟が現存する。この建物は1929(昭和4)年竣工の鉄筋コンクリート造3階建である。

 (2019.12撮影)

 旧附属図書館についての説明板には以下のように記されている。
京都府立医科大学旧附属図書館(京都府指定有形文化財(建造物))
 本格的なゴシック意匠にモダンデザインが混在するネオ・ゴシック建築として、質が高い遺構である。京都府内では随一であり、平成20年(2008)3月21日文化財として指定された。特に階段講義室は貴重である。
 建立 昭和4年(1929)
 構造 鉄筋コンクリート造、陸屋根
 規模 地下1階・地上3階建、建築面積488㎡、延床面積1,952㎡
 この建物は、外来診療棟整備工事(H17~H23)の基本計画では容積率超過となるために解体予定としていたが、存続を切望する大学と京都府知事の想い、更には京都市の御理解により、存続へと方針転換した経緯がある。
 それまでは雨漏りなどで劣化が進む状態であったが、この度、荻野基金(寄付金)により、改修工事をを施工することができた。
 ここに、本学昭和32年度卒業の故荻野文子先生の御遺志に拝謝し、完工を記念するものである。
平成21年(2009)9月11日
京都府公立大学法人
京都府立医科大学 学長 山岸久一 

 旧附属図書館棟の前には、府立医科大学と附属病院の来歴を記した「療病院碑」が建てられている。碑に関する説明文を以下に記す。

療病院碑(2019.12撮影)

療病院碑
 京都府立医科大学と附属病院の前身である医学校と療病院は、1880年(明治13年)7月18日、現在の広小路の地に約6年の歳月を費やし、粟田口青蓮院内に設置されていた仮病院から新築移転した。日光宮里坊、二條、政親町の3旧邸の跡地に、ライプチッヒ大学病院をモデルにした療病院8,451坪(27,937.1㎡)および医学校693坪(2,290.9㎡)の当時としては最高の施設が誕生した。工事には府民が無償奉仕し、落成式には槇村正直京都府知事、萩原三圭医学校校長、ドイツ人教師ハインリッヒ・ボト・ショイベら多数が出席したが、「療病院の竣工を歓喜する満都の人気をわかし、種々の余興を催して蝶舞雀躍、その盛況は開都以来未曾有のこと」といわれた。後日、開院を記念して建てられたのが療病院碑であり、瀬田真黒石でできている。碑は設立当時、正門を入ってすぐ左側に建っていたが、旧臨床講堂南側、記念講堂跡地の中庭を経て、2001年(平成13年)2月に現在の場所に移された。
 明治の初期、東京遷都によって「平安京の都」から一地方都市となった京都の衰退をくいとめ、新時代に生きる都市として再生させるため、勧業政策と教育政策が植村正直や京都府顧問山本覚馬(後の初代府議会議長、初代商工会議所会頭)らによって強力に推進された。その政策の一つとして、青年蘭方医明石博高が中心になって1872年(明治5年)11月、青蓮院にヨンケル・フォン・ランゲックを招いて、ドイツ医学を主体とした療病院と医学校が設立された(同年9月、木屋町二条に仮療病院開設)。設立は京都府の費用のほかに、京都の名だたる寺院や祇園の芸妓など花柳界、さらに一般府民、市民の浄財、拠出金や寄付金によった。
 療病院という名称は、設立基金の発起人である3人の寺院住職、東山天華(永観堂禅林寺)、与謝野礼巌(岡崎願成寺、与謝野鉄幹の父)、佐々間雲巌(慈照寺)らによって、593年(推古元年)に聖徳太子の建立した四天王寺の四箇院(施薬院、療病院、悲田院、敬田院)の一つにちなんで命名された。療病院が寺院の中に配置されていたことは、単に人々の病を治すという機能だけでなく、心の痛みや市への不安を癒やす慈悲の精神に裏打ちされていたことを示す。
 本碑文には、京都府立医科大学が千年の都に培われた歴史の礎の上に誕生したことを示す表現が随所に見られ、本学草創の理念が力強く語られている。

療病院碑(読み下し文抜粋)
 人にして疫病なるや、学ばんと欲すれば能わざるなり。人に尫羸(おうるい)なるや、勉めんと欲すれども、亦能わざるなり。学ばず勉めざれば、何を以てその才を殖やし、その家を富まさんや。夫れ、人材乏しくして民戸貧しきは、及ち国の病なり。是の故に、施政の務めはいまだ民の疾病を除きて、その健康を保つより急なるは有らざるなり。我が府、維新の聖旨を奉じ、つとに種痘術を行ひ、駆疫法を布き、遠く名医を海外より徴し、以て衛生医薬を改良し、まさに大いに救済するところ有らんとす。
(療病院建設の経緯・・中略)
 今より後、民の疾病を除きてその健康を保つは、難きことにあらざるなり。こひねがわくば、後の政をこの土に為す者、能くその始を思ってその終わりを善くし、敢えてこれを廃墜有ること莫く、斯民をして永く明治の皇沢にうるおはしめよ。因りてその顛末を記し、石に刻して以て後人に告げしめんとす。
明治13年12月
京都府知事 槇村正直 

●所在地:京都市上京区河原町痛広小路梶井町


■鴨沂会館(NO.26)
 この建物は、鴨沂高校の前身である京都第一高等女学校の卒業背によって建てられた同窓会館である。竣工は1936(昭和11)年、鉄筋コンクリート造3階建。

(2019.12撮影)

●所在地:京都市上京区河原町痛荒神口西入荒神町


■京都府立鴨沂高校校舎(NO.27)
 京都府立鴨沂高校は、1872(明治5)年に開校した新英学校女紅場を前身とし、1904(明治37)年に京都府立第一高等女学校となり、1948(昭和23)年に鴨沂高等学校となった。2015年から改築工事が始まったが、本館校舎、図書館等の建築は補強され残された。本館校舎は、1935(昭和10)年竣工、鉄筋コンクリート3階建である。

(2019.12撮影)

女紅場当時の門(2019.12撮影)

●所在地:京都市上京区寺町通荒神口下ル松蔭町


■旧滋野中学校(京都まなびの街生き方探求館)(NO.28)
 滋野中学校の前身は、1892(明治25)年に開設した滋野尋常小学校である。現在の校舎は、室戸台風の被害を受けたことから1937(昭和12)年に竣工した近代的な校舎で、鉄筋コンクリート造3階建の建物である。1948(昭和23)年学制改革により滋野小学校の校舎を転用し、滋野中学校が開校する。2002(平成14)年に閉校となり、校舎は「京都まなびの街生き方探求館」として活用されている。

 (2020.1撮影)

●所在地:京都市上京区西洞院通下立売下ル東裏辻町


■キョーラク株式会社京都営業所(NO.29)
 キョーラク株式会社の創立は、1917(大正6)年、不動産開発の京洛土地株式会社として創立した。1947(昭和22)年にプラスチック業界に進出、社名を京洛興業(株)からキョーラク株式会社へと改称した。この建物は大正から昭和初期に建造されたものである。

(2021.2撮影)

●所在地:京都市上京区烏丸中立売下る竜前町


■山内邸(NO.30)
 この建物は、1922(大正11)年に建造された木造2階建の建物である。

(2021.2撮影)

●所在地:京都市上京区新町上長者町東入る元土御門町


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