佐賀の反射炉碑をめぐる   update:2017/11/22

 佐賀藩は全国に先駆けて反射炉を作った。1852年、市内築地(ついじと読む)に4基の反射炉を完成させた。
 反射炉とは、銑鉄を溶解して鋳造するための施設である。幕末期には、佐賀をはじめ、薩摩の集成館、水戸の那珂湊、幕府天領の伊豆韮山、島原の安心院、鳥取の六尾、長州の萩等、各地に反射炉が作られたが、実際の鉄製大砲に成功したのは佐賀藩だけであった。このうち、現在も反射炉の遺跡が残っているのは伊豆韮山のみである。

 多布施反射炉は、1853年にペリー来航に危機感を抱いた幕府が、佐賀藩に大砲製造を依頼したことを受け、1953年に築造された。

 佐賀の反射炉はいずれも遺跡が残っておらず、その地と思われる場所に碑が残るのみとなっている。築地反射炉碑は日新小学校の敷地内にあるが、特に断らずに入校し見学できた。また、佐賀駅前北口に反射炉碑がある。

 以下に各碑の説明内容を示す。
(1)駅前にある反射炉碑
佐賀藩の反射炉
  日本で初めて鉄を生んだ溶鉱炉 嘉永3年12月12日火入式
  佐賀県佐賀市・佐賀県機械金属工業会連合会・佐賀県青年工業会連合会
嘉永3年(1850)12月12日、わが国で最初に築造された佐賀藩の反射炉が、日本近代工業のあけぼのをつげた。幕末、黒船の来航など国内騒然とした中に佐賀藩主鍋島直正は世界の大勢を時、海防を献策したが、幕府はこれを聞き入れなかった。そのため佐賀藩は独力で、この地に反射炉の建設にとりかかり、失敗を重ねたあげくわが国最初の工業用鉄精錬と鉄製大砲の製造に成功した。嘉永6年、ペリー来航にあわてた幕府は、佐賀藩に「公儀用大砲200門鋳造」を委嘱。佐賀藩技術陣は苦難に耐えこの大任を果たした。本碑は日本近代工業の先駆をなした郷土佐賀人の進取性と真摯な営みの歴史を顕彰するものである。
  (縮尺1/6)昭和50年12月12日建立

 

(2)多布施反射炉碑

品川御台場用の鉄製大砲鋳造反射炉と錐鑚機場
  佐賀藩公儀御石火矢鋳立方絵図(多布施公儀反射炉)嘉永6年1853
 佐賀藩は嘉永19年(1642)から長崎港の警備にあたってきたが、文化元年(1804)露国使節レザノフの来航、同5年(1808)イギリス軍艦「フェートン号」の長崎港侵入があり、長崎港の警備はそれ以来緊迫した空気につつまれた。
 鍋島直正が10代藩主につくと、これに対処するため長崎港台場の増設と洋式大砲の設置を痛感し、嘉永3年(1850)築地(現、日新小学校)に反射炉と溶鉱炉を築き、日本最初の鉄製大砲の鋳造に成功した。
 嘉永6年(1853)ペリーの来航にあわてた幕府は、江戸湾防備のため品川御台場を新設し鉄製大砲を佐賀藩に依頼した。そこで佐賀藩は、多布施(現在地)に公儀用の反射炉を増設し、安政3年(1856)までに鉄製24ポンド砲25門、36ポンド砲25門を納め、さらに150ポンド砲3門を幕府に献上した。又、文久・慶応年間には、当時世界で最高水準を要したアームストロング砲(鋳鋼製)の製造に成功し、わが国の科学技術の最高水準を示している。
 上絵の水車場は水車を利用して鋳鉄に砲道をあける錐鑚機が作動している。ここに引かれた多布施川は佐賀城外濠と城下住民への給水を目的とした用水で、成富兵庫茂安(1560~1634)が心魂打ち込んで築造した近代河川の一つである。
 嘉瀬川からの分流取入口の石井樋は、象の鼻の先方に立て並べた亀石が、水勢で前後左右に動いて底部付近の砂を掘り、砂がたまることなく天狗鼻の方へ逆流させるなど、余水と流水をうまく調整できるように設計したもので、高度な頭脳と技術を要したものである。成富兵庫茂安が河川工学に示した技量は佐賀の伝統的技術として茂安の末裔達につがれ、蘭学から得た知識を消化して、幕末の鋳砲事業に成功したことは偶然でなかったことを物語るものであろう。
昭和60年 佐賀県機械金属工業会連合会創立25周年記念
 

(3)築地反射炉碑

種別      佐賀市史跡
名称      築地反射炉跡
指定年月日 昭和42年2月11日

 佐賀藩は、寛永18年(1641)以来、幕命によって福岡藩と1年交代で長崎警備の任務についていた。その装備は、諸外国と比べると薄弱であった。10代藩主鍋島直正は、防衛の任務遂行を懸念し幕府にその旨を献策したが受入れられなかった。かねてから西洋文化に関心を示していた直正は、嘉永3年(1850)、この地に、藩独自で洋式反射炉を築造し、築地大砲鋳造所を設け、長崎台場の防衛用大砲を製造した。嘉永6年(1853)、その威力を幕府から認められ、大砲の鋳造依頼があったので、多布施に新たに反射炉を築き、公儀石火矢鋳立所を設置し、幕府向けの大砲を製造した。
 嘉永5年から慶応年間までに佐賀藩が製造した大砲は、あわせて271門におよんだ。現在は、反射炉の模型のみが昔の面影を残している。
 

駅北口の反射炉碑

 多布施反射炉碑

 築地反射炉碑

築地反射炉碑(カノン砲が以前はあったが撤去)


《多布施反射炉碑》
◆場所:佐賀県佐賀市伊勢町
《築地反射炉碑》
◆場所:佐賀県佐賀市長瀬町9-15日新小学校校庭
◆交通:JR佐賀駅より佐賀市営バス(18)徳万・久保田線、(25)広江・和崎線、(27)嘉瀬新町・久保田線に乗車、「長瀬町」下車、徒歩5分で築地反射炉碑へ

◆TEL:0952-40-7105(佐賀県企画調整部世界遺産登録推進室)
 

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